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WALKING IN L.A.

だんだん「コロナ」というワードを耳にする回数が減ってきたかな。でも、もうコロナ以前の平和な?日々はもう二度と帰ってこないという感覚はありますね。そうでなくても、世の中は物凄いスピードで変化していると感じるし、時は前に進むもので、誰にも止めることはできません。日々更新される新しい世界が少々居心地の悪いものであったとしても、それに対応して生きていくしかないんだよね。

きのう蕎麦屋に入ったんですけど、スマホを使ってオーダーするシステムで、うまく商品を検索することができなくて、とりあえず目に入った盛り蕎麦を注文しました。本当はもう少しにぎやかな食事にしたかったんだけど。今後、僕が死ぬまでにどのぐらい蕎麦屋で食事をするかはわからないけれど、「小さな蕎麦のついた天丼セット」とか、「肉を抜いた南蛮カレー蕎麦」みたいなものをランチに食べたいと思うなら、ある程度スマホを使いこなせるようにならなくてはいけない。あきらめて、「蕎麦屋では盛り蕎麦しか食べない。」というのもひとつの選択ではあるでしょう。スマホに翻弄される無駄な時間を全てクリエーションに注げば、もう少しマシなものが作れるようになるかも知れません。

数日前、久しぶりにエスケン師匠と会ってお茶しました。師匠もニューアルバムを発表したばかりで、相変わらず多忙でクレイジーな日々を過ごしてらっしゃる様子。スマホやタブレットなどのツールもフルに使いこなしているようで、僕のインスタの投稿なんかも、けっこうチェックしてくれているそうです。特に動画制作についてたくさんお褒めの言葉をいただいて光栄。

しかしだな。日本を代表するオルタナティブミュージックのプロデューサーが、映像と音楽で構成された作品を観てくれて、音楽の方には全く興味を示さないという事実。音楽を作っている者としては屈辱ではあります。エスケンさんは芸術に対して100%ピュアな人間で、いいものはいい、興味のないものは、どんなに高明な人間の作品であっても興味がないというスタンスで生きてらっしゃる方なので、まあ僕の音楽が師匠のセンサーに引っかからないのは、それまでの作品でしかないと言うことで仕方がない。

エスケンさんのところには今でも毎日何百という数のデモ曲が送られてくるそうです。師匠はそのほとんど全部を「聴かない」と言っていました。その膨大な曲の中にはきっと、ヒットソングの卵となりえる名曲も含まれているはずです。それらを差し終えて、いわば「飛び級」で自分の曲を聴いてもらえる立場にいるにもかかわらず、師匠の鋭いの耳のセンサーをかすることもできず、何と言えばよいか、申し訳ない気持ちも。できれば才能があるのに人に知られていない金の卵に自分の特等席を譲ってあげたいぐらいだ。

でもまあね。凄い奴はやっぱり凄くて、結局どこかから芽を出して来るもんなんだよね。「埋もれた才能」なんてのはゴッホの時代の話、売れるには理由があるし、売れないのにも理由がある。それが現代だと僕は思います。

僕のインスタなどをフォローしてくれている方は知っていると思いますが、最近、ロサンゼルスのロックフェスティバルに出演することができまして、まあ相変わらず世間的には何の話題にもなっていないのですけれど、自分としてはまあなかなか大層な出来事ではありました。ライブの映像などもオンラインに出回っておりますが、個人で撮影(苦手なスマホを使って)した動画や写真に音楽をつけたショートムービーをYouTubeにアップしてあります。エスケンさんが絶賛してくれたわりには、再生は全く伸びず、現在30アクセスぐらいかな。(以前、友人に、どうやったらそんなに低い再生回数のYouTube動画を作ることができるのか?とマジ顔で訊かれたことがあります。)ぜひご覧になってみて下さい。

コーヒーブレイク

平日、午前中の青山。曇り空。熱を帯び湿った空気が重く街にのしかかっている。通りの店らはすでにドアを開けていたが、人の姿はまばら。ふと目についたカフェに入店した。朝の準備で忙しいのか、あるいはフランスの様式を真似たのか給仕の愛想はない。私はカフェで歓迎される要素を何ら持たない初老のダメ人間で(そして年甲斐もなく半ズボンを履いている。)自らそれを自覚しているので、私自身はそれで全くかまわないのだが、私の登場によって彼女たちの気分が少なからず害されたならば、それはこのあと、この店を訪れるお客の気分にも悪影響を与える要素になり得るわけで、それは私の本望ではない。

それも自意識過剰かも知れない。よく考えてみれば、ただ訪れただけでひとりの人間の気分を変えるほどの存在感が自分に備わっているとは思えない。彼女は単に機嫌が悪いか、そもそも機嫌が悪い人なのだろう。

誰もいない広々としたテラスのひとりがけソファに席を取り、コーヒーとケーキを注文。ほどなく給仕がそれらを運んできた。テーブルの位置が低く、彼女がケーキを置く時に前屈みになったせいで、大きく開いた胸元から胸の谷間がちらりと見えた。そういう時に動揺しないクールな人間でいたいと日頃から思っているが、おそらく私は取り乱したであろう。給仕は何も気がつかないふりをして店内に去っていった。

コーヒーは薄く、ぬるく、チョコレートのケーキは趣味が合わなかった。ソファの座り心地もイマイチだったし、テーブルは低すぎた。しかし私はこのひとときを楽しんでいた。ひとりでカフェに入ってコーヒーを飲むこと自体が数ヶ月ぶりのことだった。その行為(つまりカフェを訪れること)が、私の生活にとってどれだけ救いであるかをあらためて体現したのである。悪いことばかりではない。ケーキの上にちょこんとのせられた小さな赤いマカロンが美味だった。

ケーキの皿にチョコレートで文字が描かれていた。私の知らない言葉だった。フランス語かと思ってグーグルで調べてみたらマオリ語で「姿を消す」という意味だった。それがこの店で働く女たちの希望なのか、何らかの予言なのか、私にはわかりかねた。いずれにしても私はこの店に歓迎された客ではないようだった。

アイヌ人だったか、人の命名に動詞や形容詞を用いるという話を聞いたことがある。例えば「昇る黄色い太陽」とか「死せる美しい熊」とか、そんな感じだろうか。既存のルールを無視して勝手に自分に新しい名前をつけることができるなら「姿を消す」はミステリアスでなかなかクールな名称であるような気がする。

ラジオ体操とほうれん草

最近の口癖は「前にも話したことあると思うんだけど」。これも前に話したことがある気がするが、今朝、茶のための湯を沸かしていてる途中に記憶の扉が開いたのでここに記しておく。

小学校1年か2年だったと思う。体育の授業でラジオ体操の練習をさせられていた。「体を回す運動」の途中で教師から「やめ」の号令がかかった。「ホンダ(僕の本名だ。)くん、ちょっとこの運動をみんなの前でやってみて。」

僕はおそろしく運動神経の鈍い子供で体育は本当に苦手だった。走るのが遅いぐらいなら他人に迷惑はかけないが、球技などでは僕の入ったチームが負けて忌み嫌われるし、本人は真面目にやっているのに、奇妙で予測不可な動きをする様子がふざけているように見えるらしく、笑い者になるのを通り越して怒りを被ったり、体育の授業はまあ控えめに言って地獄だった。

その日のラジオ体操でもきっとまた変な動きをしていたのだろう。教師は「悪い手本」としてわざわざクラスメートの前で僕にその運動をさせるわけだ。公開処刑である。

僕は顔を真っ赤にさせ、体をブルブル震わせながら、校庭に体育座りで整列したクラスメートの前に出て、ひとりで「体を回す運動」をやった。

体を回す運動:両腕で円を描くように体を大きく回す。左右2回繰り返す。腰周辺の筋肉をほぐし柔軟性を高める。

「ホンダくんの運動をどう思いましたか?」

僕の一連の運動が終わった後で、教師が生徒らに尋ねた。僕は顔を真っ赤にしたまま、涙が出てきそうなのを堪え、下を向いて突っ立っている。

「はい!」

イシマルさんが手を挙げた。イシマルさんは学級委員長で勉強ができて、明るく、クラスの人気者で、そして小学生でもそれとはっきりわかるような美人だった。家もお金持ちだったと思う。

「何だか動きがちょっと変だと思います。くねくねしていて。」

生徒たちが顔を見合わせながら「そうだそうだ」と彼女に同調した。

「ふうん。動きが変。なるほど、他には?」

クラスメートはざわざわしていたが、それ以上意見をいう者はいなかった。

「ホンダくん、もう一回やってみて。」

僕はもう教師に殺意を抱きながら、もう一度そのくねくねダンスを披露した。

「みなさんホンダくんの動きをよく見て、ほら、体を大きく動かして綺麗な円を描いているでしょう?とても素晴らしい。このようにすると腰の柔軟性が高まるのです。みんなもホンダくんのように円を作るように体全体を使って動かしてみてください。ホンダくん、戻ってよし。ありがとう。」

今度はイシマルさんが赤面する番だった。生徒たちは「オレも実はそう思ってた。」みたいな顔をして、体を回したり、友達同士で動きを見せ合ったり、僕のことを羨望の目で見るような奴もいた(おそらく僕の妄想だろう。)が、チャイムが鳴った瞬間に、すべてなかったことのように僕以外の者らからこの授業の記憶が消えた。

+ + +

ある日、給食の時に、イシマルさんが下を向いたまま大粒の涙をボトボト落として泣いていることがあった。ほうれん草にアレルギーがあって食べられず、それで泣いているらしい。給食は好き嫌いをせずに、よく噛んで、残さず全部食べましょう。というのがルールだった。責任感の強い生徒だったから、学級委員長の立場でそのルールを守れないのが悔しかったのか、あるいはこの不幸を受け入れられず悲しかったのか。

今にして思えば、その時に彼女の机のところに行って、ほうれん草をムシャムシャ食べてやればよかった。その頃の僕は内気で、暗く、自分のことだけで精一杯のダメな少年だった。(そしてほぼその時のまま大人になった。)

ラジオ体操を真面目にやっても、柔軟性のある体にはならない。今年2度目のギックリ腰は患ってからもう3週間になるが、まだ大好きなキックボクシングの練習ができるまでには治っていない。ヨガや整体いろいろやったが、大した効果はない。まあ腰痛は持病らしく、うまく付き合いながらやっていくしかないようだ。

ほうれん草は好きでよく食べる。葉酸が体に悪いという人もいるが、ここまで生きられたんだからそれで多少寿命が縮んだところで問題ないと思っている。特にインド料理のほうれん草とチーズのカレーが好きで、こうやって話をしている間にも食べたくなってきた。

褒められたい

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僕は他人から褒められる機会の少ない人間だと思う。なぜそうなのか自分ではよくわからないが、そのように生まれ、そのように育ってきた。中学校の時に市の水泳大会で2位になり、自分ではまあまあ凄いことだと思ったけれど、両親も教師も友達も誰も褒めてくれなかった。今年は海外DJツアーを敢行して、50を超えたおっさんが海外でDJデビューって自分ではまあまあ凄いと思ったが、誰にも褒められないどころか何の話題にすらならなかった。これがイナバさんだったら賞讃の嵐できっと大田区の電話回線がパンクしたことだろう。

滅多に褒められることがないので一度褒められたことはずっと忘れない。

15年くらい前に若い男性に「マックさんてすごく美味そうにメシを食いますね。」と言われて、なるほどオレにはそのような特技があったのか、と真に受け、自分が食事するところを撮影するようになった。スマホなどなかった時代の話である。20万円以上もするSONYのデジタルビデオカメラを購入し、自宅や店(僕はそのころ飲食店に従事していた。)で食べる姿を撮影した。人のお店に頼み込んでカメラを入れさせてもらったこともある。撮ったビデオをMACで編集してビデオコンテストに出場したこともある。(結果は惨憺たるものだった。)そのうちにYouTube、連動するようにスマートフォンが出てきてそこに撮影した動画をアップするようになった。全く何の話題にもなったことはないが、それから現在までずっと続いている。おそらく言った本人も忘れているような「褒め」のひと言が10年の時を経て今も僕を鼓舞し続けているのである。

褒めで持ち上がる人間というのは、だいたいにして謗りで落ち込むのが常で、僕も例外ではない。僕は基本ダメな人間なので、謗りのネタ提供にはいとまがない。これまでありとあらゆるタイプの謗りを受けながら生きてきた。謗られのエキスパートと言ってもよいかも知れない。僕のタイプの謗ラレストは「何をやっても謗られる」のが特徴で、例えば毎日のように深酒に沈んでいた頃は普通に「クズ」とか言われていたが、酒をやめたらやめたで「シラフのマックロマンスに価値はない。」とかって面と向かって言われるような次第でやるせない。

YouTubeでもこのところ否定的なコメントが目立つようになってきた。アクセス数が上がっているならば、クソリプのひとつやふたつ無視することもできようが、アクセスは減っているのにディスり系のコメントが増え続けていくのには我慢がならない。

他方、「クレームは財産だ。」という話を聞いたことがある。考えてみれば、見知らぬ誰かがアップした動画について、わざわざコメントを寄せるという行為だって、まあまあのエネルギーを要する所業である。腹が立ったにせよ、何にせよ、少なくとも動画を見て何かを感じたわけである。彼らのディスコメントの中に何かヒントがあるのではなかろうか。一度、彼らの話を真摯に聞いてみることにした。彼らは何を怒っているのだ?

答えは簡単に出た。

見たことのない人(おそらく誰も見たことないだろう。)のために簡単に説明すると、この「食べるシリーズ」は、その名の通り、僕が食事やスイーツを食べるところをiPhone撮影した(だけ)の動画である。ストーリーや演出や編集は一切なく、撮影したものをそのままYouTubeにアップしている。

食べたものがそのままタイトルになっている。例えば、きのうは天丼を食べたのでタイトルは「天丼」である。

これが良くなかった。

「天丼」のタイトルを見て、僕の動画に行き当たった人が見たいのものは「天丼」なのである。それを食う人ではない。彼らは天丼そのもの、どんぶりから上がる湯気とか、カリッと揚がったエビ天とか、甘辛いタレが衣に浸透していく様子とか、そういうものを期待してタイトルをクリックするわけだ。で、登場するのが、冴えない髭面の初老の男である。

ちなみに「食べる僕」にフォーカスを当てているので、食べている物はちゃんと映っていないことが多い。例えば天丼ならその多くはどんぶりの中に隠れているし、「シャケおにぎり」なんて場合は、中がシャケなのか梅干なのか外から見たのでは全くわからない。

例えば動画タイトルに「裸の女性」と書いてあったとして、蓋を開けてみたら裸の女性は全く映ってなくて、それを眺めてニヤニヤしている初老の男性の顔が映し出されていたとしたら、それは僕でも怒ると思うし、まあ機嫌が悪ければディスコメントのひとつでもよこすかも知れない。

そんなことに10年近くも気が付かず、全くもって申し訳ない。反省して、すぐに対応策を考えることにした。要するにタイトルを見た時点で、これが「マックさんがものを食べている」動画であることがわかるようにすれば良いのである。

「食べるマックさん」。何週間も考え抜いた末に決断した動画のタイトルである。今後、動画にはこれをかならず明記するようにした。例えば天丼を食べたとしたら、タイトルは「食べるマックさん/天丼」である。ついでにタイトルロゴも作ってみた。(こういう仕事はわりと早い。が、もちろんそれを褒められたことはない。)

これで動画へのクレーム、嫌がらせ、クソリプなどは飛躍的に激減するはずである。これを読んでマックさんのことを褒めたくなったら、ぜひYouTubeにアクセスして賞賛のコメントを投稿することをお勧めする。

新種

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庭で育てていたバジルとシソが勝手に交配したらしく、バジルシソになって繁殖していた。

ティーンエイジャーだった頃(当時、四国の田舎町に住んでいた。)、友達と連れ立って、フェリーに乗ってはるばる大阪に出向いたことがある。あてもなく街をぶらぶらしているうちに腹が減り、あてずっぽうに入った店のメニューに「スパゲティーバジリコ」を発見した。名前からどのような食べ物出てくるか全く想像できず、興味津々で注文してみたところ、登場したのが今になって思えば何の変哲もないスパゲティバジリコ。たいしてインパクトのある味ではなかったし、見た目からして地味な料理だったが、少年の好奇心を満たすには十分だったようで、「ほお、都会の人はスパゲティーにシソを混ぜて食べるんや。」などと感心して、満足げに平らげたのをおぼえている。以来、後にバジルという植物が別に存在することを知るまで、ずっとバジルのことをシソだと信じ込んでいた。

とは言え、時代背景から想定するに、少年が大阪で食べたスパゲティーバジリコは、バジルの代用品としてシソが使われていた可能性は高いと思う。和風パスタと称される奇妙な料理の定番メニューとしてイカと納豆のスパゲティーというのがあるが、あれのトッピングはシソの代わりにバジルというわけにはいかぬだろう。そもそもシソはバジルを凌ぐほどにパスタと相性が良いのだ。

僕は母親の作る料理をあまり好まずに育ったが、好きだったものもいくつかあって、そのひとつがシソの焼きおにぎりだった。梅干しの入った塩にぎりにシソの葉をへっとくっつけて焼くだけのシンプルなアイテムだが、ミイラになるぐらいまでシソに火を通すのがポイントで、ちょっと他で目にかかったことはない。

もうひとつはスポンジケーキで、極端に薄いのが特徴。おそらく生地を泡だてすぎたか何かで、うまく膨らまなかった失敗作である。クッキーとケーキの間ぐらいの硬さで、当然ケーキとしては失格なのだけど、まあ、そもそもケーキなんかを食べさせてもらえる機会も貴重だった中で、大好物のごちそうだった。毎回、同じように失敗するので、母親のケーキとはそういうものだと思っていたのだが、それから数十年経過して、母親も腕を上げ、普通のスポンジケーキを作れるようになってしまった。あの噛みごたえのあるケーキがもう食べられないのは残念である。

僕が肉を食さないのは30年ほど前にイギリスで生活していた時につきあいのあった連中(多くはミュージシャン、絵描き、などのダメな人たち)の影響で、健康や動物愛護の精神などは全く関係なく、単に肉を食べないことが「クール」と感じたというだけの安易な理由で、要するに「ファッション」なわけなのだけど、今回、ヨーロッパに行って当時の連中(半分ぐらい死んでいなくなっていた。)と再会したところ、今でも肉を食さないのは僕ぐらいで、どいつもこいつも自分らがベジタリアンだった記憶すら曖昧といった具合。ただし「食生活から何かをマイナスする。」という思考そのものは健在で、多くが砂糖と小麦を憎んで忌み嫌っていた。グルテンフリー、シュガーフリーが現在の彼らのトレンドであるらしい。

砂糖や小麦を食さないことを、今回は別段「クール」とは感じなかったし、肉だけでなく、酒もタバコもドラッグも、最近ではテレビやラジオをもやめた削ぎ落としの痩せ細り人生において、何かをやめるのもこのぐらいにしておいた方がよかろうと、今のところケーキやパスタを食べなくなることはないと思っている。こうやって書いているうちに腹が減ってきた。朝っぱらからスパゲティーを茹でてやろうかなんて思い始めている。

話はそれたが冒頭のバジルシソ、味の方がこれまた不思議で「甘みのあるバジル」という感じ。用途はいろいろありそうだが、最初に思いついたのはフェタチーズ。かけらを葉で巻いて食べたら美味しそう。感想はまた後日。

急須

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急須が欠けたので新調しました。お茶はやはり急須で味が露骨に変わります。鉄瓶(お湯は鉄瓶で沸かします。)や金属系よりも陶器がよくて、つるつるした素材よりも素焼きっぽいザラザラしてる方が良し。そして金属系のフィルターは使わない。サイズは小ぶりな方が美味しいお茶を淹れられるみたいですけど、僕は何杯も飲むのでこれぐらいの大きさ必要です。

夕食

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最後の晩餐にどんな料理がふさわしいかについては自分の中でも諸説ある。キリストのように大勢で食卓を囲むのだけは避けたい。小さなテーブルと座り心地のよい椅子がひとつづつあればよい。酒はいらない。音楽も必要なかろう。てきぱきと動く程度のよい給仕のいる店で、できれば通りに面して行き交う人を眺められる席がよい。風は少し冷たく、昼でもない、夜でもない時間帯が最高だ。皿いっぱいのフライドポテトを口の中に押し込み、コーヒーのおかわりをを注文する。ギトギトになった指をパンでぬぐい、そいつをまた口に放り込む。背後で交わされる男女の会話がフランス語だとより素晴らしい。デザート(ラズベリーの入ったタルトだ。)を運んできた給仕が、腕にかけた白いトーションの下から小さなピストルを取り出し、僕の後頭部に銃口を当て、無表情のまま引き金を引く。僕は口に入らなかったラズベリーの甘酸っぱい香りに思いを馳せながら、暗闇の中、地獄への階段をひた降るわけだ。何たる完璧な。

DJ info

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さておき2019年も青山から始動です。

コーヒーブレイク

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本屋をうろちょろしていたら、ふと「もしお金のために働かなくてもよいならあなたは何をしますか?」というコピー(うろおぼえなので正確ではないけれど、だいたいそんなだったと思います。)が目に入ってきました。おそらく「ベーシックインカム」がテーマの本だと思います。内容はともかく、頭の中で「そりゃあサーフィンだよなあ。」と即答。

よく考えてみたら僕は現在ほとんど働いておらず、つまりその本のコピーで謳われている「お金のために働かずに生活している人」そのものです。その気になれば毎日サーフィンに行くこともできますが、実際に海を訪れるのは多くても週に1度ぐらい。だいたい毎日、家から一歩も出ずにパソコンかiPhoneでツイッターなどを眺めているうちに日が暮れるという堕生活を何年も繰り返しています。

バリバリ働いている人はだいたい趣味、というか私生活の方も充実しているのではないかと僕は思います。僕のような本物の怠け者は、時間があっても自分の好きなことですらやらずに、ぼおっと何もしないことの方を選ぶんだわ。そんな自分のことをいつもとても残念に思っていますが、今更ライフスタイルを変えようとまでは思いません。

さておき、やっぱり海はいいなあ。いい波にのれた後のコーヒーは本当に美味しいです。せっかく時間があるんだから毎日行けばいいのにね。

朝食

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きのうの朝食(正確には朝食後のデザート)を写真にとってアップしたところ、たいへん面白かったとの感想をいただき、嬉しいようなちょっと複雑な気持ちです。

毎回どうでもよい内容の投稿ではあるのですけど、自分なりに、熱量を持って書いた記事とそうでないものがありまして、まあきのうのなんかはその中でもかなりやる気のないやつ。気合いを入れて書いた方を読んでくれよという気持ちもありますが、まあ当然、こちらサイドでどうこう言える筋合いのものではあらんせん。

そして褒められるとすぐにその気になる性格であります。さっそく今朝の食事を撮影したわけだ。

見てのとおり、パンにチーズをかけて焼いただけのシンプルなプレート。中に溶けたバターがたっぷり入っております。コーヒーでなくてミルクなのには理由があって、ほら、バター入れに使い切ったバターが残るでしょ?あれもったいないんだよね。なので、温めたミルクで残らずこそぎ落とすわけだ。無駄をなくすだけじゃなくて、バター入れを洗うのも楽になるし、濃厚なホットミルクができるし、一石三鳥。

ちなみにコレの前にちゃんと朝食(おにぎり3個とつみれ汁)食べてます。あくまでこれは食後のお楽しみ。そしてこの日も自宅から一歩も出ることなくうだうだと録画した映画とかを観て1日を無駄に過ごしました。外はもう真っ暗。

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朝食の後にコーヒーと共に焼いたパンを食べるのが習慣になっている。(朝食がそもそもパンの時もあるが、やはり同じように食後にパンを食べる。)食パンが多いが、特にこだわりはくクロワッサンでもブリオッシュでもパンなら何でもかまわない。これにバターとハチミツをたっぷり。それらのブランドや産地もあまり気にしない。ただ、ときどき手に入れられる高価なハチミツはやはりその辺のスーパーで売っているものよりずっと美味なのはまちがいない。

まあだいたいこれが私の1日のメインイベントだ。コーヒーを飲み干し、皿やカトラリーを洗ったらもうやることはほとんどない。パソコンの前に座り、ツイッターやインスタグラムをハシゴしているうちに夜がくる。その間に何度かコーヒーをいれるが、朝の一杯ほどは美味く感じない。

断食中

軽めの断食を始めて今日が3日め。少量のフルーツやコーヒーなどの飲料は摂取しても良いことになっているのだけど、少し食べるよりは全く何も口に入れない方が楽なので、今日は飲み物だけで辛抱している。

空腹に耐えられなくなったら腹筋運動などをして気を紛らせるというマゾヒスティックな手法。目的や目標があればよいのだけれど、何となくの思いつき企画だから、ただ苦しいだけで得るものは何もない。我ながらタチの悪い性格だと思う。やれやれ。

若い頃に1週間断食をした経験があるが、その時は初日からふらふらし始め、3日目で歩くことができなくなり、残りはベッドの上で過ごした。その後はほとんど記憶が作られず、気が付いたら一週間が経過していたという感じだったと思う。

今は別に体力的には何の問題もないから、やはり20代と50代では代謝が異なるようだ。食わなくても長期間動けるようになっているのだから、若い頃に比べてむしろ肉体が進化していると考えるべきだと思うのだが、そんなわけはないよね。いったいどういうメカニズムなのだろう。

限界までチャレンジしてみたいものだが、生憎、明日の夜は六本木でDJがある。空腹状態で集中とぎれず5時間の現場を乗り切る自信はないし、中途半端なプレイではお店にもお客様にも失礼だから、とりあえず明日の朝からはちゃんと食事を摂って万全の状態でブースに入るつもりでいる。今のところ特に変化は感じられないが、何かが覚醒してぶっ飛んだプレイができるかも知れない。

 

 

 

記念日

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結婚26周年をむかえることができました。ただひたすら妻に感謝するものであります。

DJ INFO

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いつも急な告知ですみません。ゴールデンウィーク真っただ中の平日に青山CAYでDJします。二夜連続ですので、それぞれ全く違うスタイルの選曲にしてみようかと思っています。

香港コーヒー事情

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と、いうわけで来ました。香港。

仮に(あくまで仮の話ですよ。)東京を離れてどこか他の土地に移住することを考えた場合、ないと困るのがコーヒーショップ。タバコも酒もやめましたが、コーヒーのない生活というのは今の僕にはちょっと考えられません。そして当然、コーヒーなら何でもよいというわけではない。東京のコーヒーのレベルが上がったせいで、感性の方も鋭くなってしまいました。ちょっと前まで普通に飲んでいたスタバやセブンイレブンのコーヒーは今やカラダが受け付けません。

ドリップは自分で賄うとしても、焙煎はとても素人の手に負えるものではなく、つまり生活圏内にロースターがいることが不可欠。はたして香港のコーヒー事情やいかに?

と、どうやらサードウエーブの流れは、ここ香港にも到達しているようで、それほど苦労せずに本格的な焙煎所を見つけることができました。コーヒーショップもあちこちで見かけますし、東京と同じにはいかないまでも、ここ香港でもコーヒー難民にならずにうまくやっていけそう。

マーマレード

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幸せをカタチで表現するのはとても困難ですが、朝から妻が橙(だいだい)のマーマレードを作っています。なかなか幸せな光景です。部屋中に柑橘の香りが充満していて、シシリー島にいるみたいな気分です。行ったことないですけど。

カフェとパリ

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すべてのカフェは自宅よりパリに近い場所にある。それは僕がカフェを愛する理由のひとつでもある。

農家レストラン

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千葉県佐倉市の郊外に農家レストランを発見。土間に十数席のキャパシティ。まきストーブが心にも暖かい。近所の農家(と思われる)の女性たちが数名で店をきりもりしている。近隣の常連さんが食事しに集まってくる様子。旅行者も訪れるようで、この日は平日にもかかわらずお客さんいっぱいで入店まで10分ほど待った。お昼のメニューが6〜7種類。煮魚の定食を注文。メインは珍しい「のどぐろ」。小鉢がいくつかにごはんと味噌汁がついて900円。グラタンなどもオンメニューされていて、農家メシというよりは「お母さんのごはん」といった印象。味はすごくいい。駅からは徒歩の距離ではないと思う。わざわざ行く感じがいい。店を出る時の満足度は非常に高かった。Googleがなかったら一生行く機会なかっただろう。テクノロジーに感謝。手作りのケーキも用意されていたので、次回はぜひそちらにもトライしたい。

収穫

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衝動的にオリーブの苗を買ったのが1年前。まさかこんなに早く収穫できるとは思いもしませんでした。さっそく塩漬けにしました。食べられるのは1年後。1年後、世の中も自分も一体どうなってることやら。

リンゴ煮

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台風が来てるんだって?こんな雨の日曜日にはリンゴを煮て食べるのがよし。薄く切ったリンゴをバターで焼いてブランデーでフランベしてたっぷりのハチミツをまぶしてもうひと煮。熱いうちに食べるべし。

無題

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「ぽぽう」というのだそうです。母の実家の庭に植わっていて、この時期になると写真のような実をつけます。こぶりのパパイヤみたいな様相ですが、味もやはり南国調。ただ甘さは淡く、どこか青くささもあり、好んでパクパク食べようという気にはなりません。戦後など人々が甘味に飢えていた時代でしたらたぶんご馳走だったでしょうけどね。我が家ではリビングに放ったらかし、エキゾチックな香りを楽しんで腐ったら捨ててしまいます。いわば「匂い泥棒」ってとこかしら。

 

ドリッパー

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携帯用のコーヒードリッパーを入手しました。折りたたみ式、専用のポーチも付いてご機嫌です。これで「海でコーヒー」用の道具集めコンプリート。

コーヒーブレイク

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ジム・ジャームッシュの新作がやってくる(しかも2本!)というニュースで、僕のまわりも何やらザワつき始めています。合言葉みたいになっちゃっているのでね、今さら話題に出すのも少し恥ずかしかったりもするのですけど、僕の交友関係にジム・ジャームッシュ的美学が深く影響していることは事実であります。

ジム・ジャームッシュの映画で唯一、自宅にDVDがあるのが”Coffee & Cigarettes”。ジャームッシュのムービーは基本、映画館で観るものだと思うのですけど、こちらはリビングルームでもけっこう楽しめる。リラックスしたい時や、アイデアが行き詰まった時の気分転換などにちょこちょこ使わせてもらっています。そう考えてみると映画そのものが「コーヒー」であり「シガレット」であるみたいですね。監督がそう意図して作ったとは思いませんが。

煙草は20年ぐらい前にやめましたが、コーヒーはつかずはなれず。もう40年近くのつきあいになるのかな。最近、自分好みのコーヒーを入れる方法を編み出しました。かなりオリジナルな手法で、あれこれディスられそうなので詳しくは説明しませんが、自分のせっかちな性格を盾にとった、なかなかよくできたやり方だと思います。

保存保存

バターナッツ

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葉山にあるお気に入りのレストランで食事。

気になったのはコレ「バターナッツ」。見てのとおりカボチャの仲間らしいけど、果肉がやわらかく煮物などには適さず、もっぱらスープの材料になるのだそうな。この日はパスタソースに使われていました。サルディーニャ島に伝わるというコンキリエのような小さなパスタにからんだ黄色いソース、バターナッツという呼び名のままに、ナッツのような風合いを含み、なめらかに甘く、チーズがとけたみたいなボリューム感もあり非常に美味でした。歯ごたえのある枝豆もよいアクセントになっていました。

バターナッツ。名前がいいよね。ラ・フランスみたいにセールスのための和製造語なのかと思いきや、もとからバターナッツなのだそうです。原産はアメリカとのこと。

カリフォルニアのビーチなんかに行くとこんな感じの太ったおばさんいるよね。あちらの方は太ってるとかぜんぜん気にしないでビキニ着ちゃったりして、そういうところは好きです。

かかと物語

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今回の入院(6月に腸閉塞で1週間入院した。)、実はそこまで堪えたわけではないのだけれど、自暴的なライフスタイルを見直すきっかけにすべきだとは思いました。むしろ生活を改善する理由が欲しくて自ら病を選んだようなところがなきにしも。

以来、粗食につとめ、酒を断ち、呼吸を整え、長くサボっていた運動を再開し、まるで禅寺の修行僧のような日々を過ごしています。

おかげで体調はよい。めちゃくちゃよいです。体重、体脂肪率は30代前半の頃と同じ、持病の喘息も完全になりを潜め、アレルギー性鼻炎にあたってはくしゃみひとつも出ません。こう言っちゃ何だけど下の方もすこぶる元気がよろしい。

びっくりしたのは「かかと」。僕のかかとは角質が硬化して正月明けの鏡餅のような状態が長く続いていました。歩き方が悪いのか、あるいは加齢と体質によるものだと思って、あきらめていたのですが、きのう、何の気なしに足の裏を見てみると、何と、あれだけガサガサだったかかとが嘘のようにつるつるになっています。触ってみるとやわらかく、弾力があって、とても自分のものとは思えないぐらいの変わりよう。

医学的なことは何もわかりませんが、ようするに(あたりまえだけど)「かかと」も体の一部なんだということです。干からびたかかとはおそらく内臓の不調と連動していたのでしょう。

カラダというのは本当に面白いものだと改めて思います。このまま健康フェチみたいになる気はさらさらありません(え、もうなってるって?)が、もう少し、自分のカラダのこと、いろいろと掘り下げてみようかなと思っています。

写真:これで足の裏の角質をカンナで木を削るみたいにゴリゴリ削り取るのです。切れ味は良いですが、失敗すると血がいっぱい出て大惨事に。ドイツ製。

 

コーヒードリップポット

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海辺でコーヒー。というのをやってみたく、ツールを集めているところです。ガラクタだらけの我が家ですので、買い物しなくとも大抵のものはすでに持ってたりするんだよね。このポットも以前ダダティークで使っていたもの。たしかタカヒロというブランドの日本製、高くバリスタの指示を得ているモデルです。もともとはプロ用のツールだけど、昨今のコーヒーブームもあってか自由が丘あたりの雑貨屋などでも見かけるようになりました。けっこういいお値段しますけど、ものすごく使い勝手よく、ひとつ持ってればたぶん一生使えますので、コーヒー好きの方にはかなりオススメです。

アウトドア用ではないけれど、頑丈だし、直火オッケーだし、海で使うのに何の問題もないと思います。ちょっと使い込んだ感じもかっこいいでしょ?

で、次はドリッパーだな。

サーモカップ

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最近の買い物は先にイメージがあって、あとから現物がついてくるというパターンが多い気がします。その日一杯目のモーニングティーを車でいただく時のためのサーモカップをずっと探しまくっていたのですが、サイズや形状で納得のいくものになかなか出会えず、妥協してスタンレーのフタなしサーモタンブラーにしようかと思い始めていたところで、ほぼすべての条件を満たしたコイツを見つけました。ちょうどコーヒー一杯分というサイズがいいし、いかにもカリフォルニアっぽいデザインも、まあこのカラーなら許されるんじゃないかと。

ウォーキング下田

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下田を歩いているとナマコ状の壁を施された建物をちょくちょく見かけます。何年か前に行った倉敷の美観街のことを思い出しました。ここ、観光スポットであるはずのエリアなのですけど全く人がおらず、かと言って寂れている雰囲気はありません。もしかしたら日が暮れると人が集まってくるのかな。

道路で学校帰りの小中学生らとすれ違うと「こんにちは」と挨拶してくれる生徒さんがいます。たぶん普段から挨拶をするように教えられているのでしょうけど、風貌テロリスト&クズの僕にのような人間に対して「こんにちは」だなんて、何だか申し訳なく心苦しいです。いやいや子供たちだけにあらず、短いステイの中で下田は人がいいところなんだと感じる場面に何度も遭遇しました。

あと、金目鯛は絶対に食べた方がいいね。刺身、炙り、煮付け、堪能しました。

無題

よく足を運んでいた近所のカフェがきのう閉店した。喪失感ハンパない。お気に入りの店がなくなると人はこういう気持ちになるんだな。

成田山

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トロンボーン湯浅佳代子さんとのセッションLIVE、無事終了いたしました。ノリのよいお客さんと場の雰囲気、何よりも湯浅さん圧巻のパフォーマンスのおかげで会場ブリブリ盛り上がりました。自分で言うのも何ですが僕の「キャラクター」もまだ使い道があるとは思いました。(肝心のDJの方は本当にもう反省しかありません。)

撮影部隊が入ったので、その日の様子は後日、動画や写真でご報告できると思います。

クローズドのイベントだったのですが、会場は今や半地元と言ってもよい千葉は成田の駅近くでした。セッティング終わってから本番までかなり時間があったので成田山を散策。(実はちゃんと巡ったことがないんだわ。)

まずは参道の鰻屋で白焼き、鯉のあらい、ビール、焼酎、、。酩酊してのお参りはバチがあたらないか心配ですが、建造物、木々、風、水、温度、、全体に漂う神聖なムード、とてもピースフルで良い時間を過ごすことができました。

写真:成田山周辺のいろんな場所から見えるシンボリックな塔は「平和の大塔」と呼ばれているらしく、調べてみると昭和59年建立とありました。僕が子供の頃からずっとあるような気がしていたけど、以外にもけっこう新しいんだね。確かに、お寺の建造物としてはモダンなたたずまいで、ハリウッド映画なんかで描かれるような「想像された和」の世界の中に身を置いているような気分になりました。

東京から電車で2時間。行く価値はあると思います。狙い目は人が少なくなる夕方らへんかな。今回、成田のナイトライフがかなり充実しているということを知ってしまったので、またいろいろ発掘してみようと思います。