はじめに
「バンコク物語」は2010年、後に立ち技格闘技の最高峰とされるタイ国ラジャダムナンスタジアム認定チャンピオンとなるキックボクシング選手=石井宏樹の試合を応援するために訪れた、マックロマンスのバンコク旅行記です。当時、個人ブログで発表したものの、例によって情報のゴミの山の中に埋もれていたのですが、先日、石井選手との酒の席で、本人から「アレ、また読めるようにしてくださいよ。」とのお話があり、こちらで再発表することにしました。
掲載にあたって誤植の修正など少しだけ手を加えました。基本的にはオリジナルそのままです。長い文章を書くのがあまり得意でない僕としては異例の15000字を超える中編です。
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前日の夜から強風が吹き荒れていた。朝方には雨も降り出した。タクシーを呼ぼうと電話をしたが話し中でつながる気配がない。傘は後で邪魔になるので荷物を雨よけに頭にかざし横殴りの雨にぬれながら駅まで歩いた。朝は5時台だと言うのに東急東横線の電車にはけっこうな数の人たちが乗っていた。渋谷駅でJR線に乗り換えて空港まで行く予定だった。成田エクスプレスのホームに着いたら雷が落ちる爆音が聞こえた。電光掲示板を見ると僕が乗るはずの6時1分発の電車の表示がなかった。駅員にたずねたところ、表示はないが電車は予定通りやって来るとの事だった。予定通りなら表示をしない理由もないはずだと思ったが黙って電車を待った。
6時1分に電車はやって来なかった。僕の人生ではこのような事が頻繁に起こる。駅内アナウンスは次の電車が6時13分発の成田エクスプレスである事を告げていた。少なくともこの時点ではアナウンスと電光掲示板の情報は一致していた。そして、その時間になってもその電車はやってこなかった。その次の電車がやって来るはずの時間になっても次の電車はやって来なかった。どの電車も来なかった。ホームでは来ない電車を待つ人々が混乱し始めていた。しばらくして、強風の影響により各線のダイヤが乱れていて成田エクスプレスは運休になる可能性が高いとのアナウンスがホームに流れた。京成線は今のところ運行しているという情報つきだった。ただしそちらもストップする可能性は否めないとのおまけもあった。さっさと駅を出てタクシーに乗った。風はやみそうにもなく、レインボーブリッジも封鎖されているらしかった。別ルートを使って、どうにか空港にたどり着くことができた。
強風でフライトが中止になることを心配したが、どうやらこの荒天は飛行機には影響がないようだった。チェックインを済ませて空港内を物色して回った。荒天騒ぎで朝からコーヒーすら飲んでいなかった。朝食を摂ろうと思ってレストランをチェックしているうちに寿司が食べたくなってきた。寿司屋に入って握りのセットを注文し、椅子に座ってくつろいだところで搭乗時刻が迫っていることに気がついた。従業員に頭を下げ失礼を詫びてオーダーをキャンセルし出国審査を受けて搭乗口へ向かった。機は問題なく離陸した。僕の席は窓際だった。ビールを注文し30秒ぐらいで飲み干した。航空券を予約した際にあらかじめベジタリアンミールをオーダーしていたのだけれど、それはクルーまでは伝わっていなかった。ポークとチキンでは選びようがないのでパンだけをもらって食べた。
台北空港で別の機に乗り継いだ。なかなか洒落たカフェがあった。ぜひともそこに立ち寄りたかったが、先ほどの寿司屋の二の舞になりそうだったのでがまんした。案の定、機はすぐに空港を飛び立った。僕の席はまた窓際だった。すぐに食事の時間になった。ビールを注文し、ためしにベジタリアンミールはないかたずねてみたら今度はちゃんとあった。何とも捉えどころのない味だったけど、朝からパンひと切れしか食べてない僕にとってはごちそうだった。うとうとして目が覚めたらバンコクだった。
タクシーでホテルに向かった。ドライバーは女性だった。高速道路が渋滞していた。ほどなく大型のトレーラーが何百本という数の空き瓶に埋もれて往生している横を通過した。急ブレーキを踏んで荷台の瓶が飛び出したのだろう。事故の現場を抜けると後は快調だった。窓の外の景色を見ても感じる事はあまりなかった。空港と駅を結ぶ高速道路から見える景色は、どこの国に行っても同じように退屈なんだ。
ホテルに到着した。料金を支払っておつりがあるはずだったが、ドライバーはただ笑顔を返して来るだけだった。どうせチップを渡すつもりだったので、そのままタクシーを降りた。チェックインの際にクレジットカードの提示を求められた。この国ではパスポートよりもクレジットカードの方が信用性があるらしい。この旅行のためにカードを作っておいてよかった。僕は若い頃、カードで苦労した経験があり、今でも基本は現金主義を貫いている。
ホテルの部屋はだいたい想像していたような内容だった。以前、上海で宿泊したホテルがプライスの割にはかなりハイクラスだった事があり、今回も心の隅でそのような幸運を期待していたが、その当ては外れた。でも悲観する事もない。部屋は広いし、まずまず清潔で、お湯も出たし、エアコンの調子も上々、テレビもちゃんと映った。中年男性がひとりで滞在するには立派すぎるぐらいのクォリティーだった。
部屋は21階にあり、窓から街を一望する事ができた。とりたててすばらしい眺めというわけでもなかった。高くもなく低くもないビル群。ハイウェイらしき高架道路。すでに日も暮れていてホテルの周辺はどんよりとした暗闇につつまれていた。何て言えばいいのかな。全体的に光が不足していた。眺めるための夜景を成立させるためにはもっと強い照明が必要だった。
ホテルの敷地内はきらびやかにライトアップされ、プールやジャグジーやオープンエアのカフェを設けた南国リゾート調の中庭で宿泊客らが水着姿のままのんびりくつろいでいた。ピースフルな光景だったけれど、どうもリアリティーに欠けている気がした。
部屋の中のセーフティーボックスに貴重品を入れようとしたが、どうも使い方がよくわからなかった。もともと僕には機械類をうまく使いこなせない才能が備わっていて、買ったばかりの家電がさっぱり動かなかったり、触っただけで壊れてしまったりするのは決して珍事ではない。そして海外旅行ほどその才能を発揮するのにこれ以上絶好な機会はないのである。その証拠にセーフティーボックスの使い方を訊ねるためにフロントに電話をかけようとしたが、それもつながらなかった。仕方がないのでフロントまで降りて行って事情を説明し、係員に部屋まで来てもらうようにお願いした。ほどなくやってきた係員がチェックしてみたところ、もちろん、先ほどまでの不具合が嘘のようにセーフティーボックスも電話も問題なく使用する事ができた。ひと息ついて着替えをし、周辺の探索に出かけた。
ホテルを出るとそこは別世界だった。ひと言で表現するなら荒んでいた。すべての店のシャッターは閉ざされ、看板や軒は朽ち、通りに人影はほとんどない。街灯もなく辺りは薄暗く、空気は生温くて魚の腐ったような臭いが漂っている。道路はひび割れ、所々汚水が流れている。歩く度に靴の底にねっとりと油がまとわりつく。旅行ガイドブックで「絶対に足を踏み入れてはいけない場所」に指定されているような光景が目の前に広がっている。通りの角まで歩いて行くと、男が話しかけて来た。1、この辺は日曜日ですべてがクローズしている。2、食事したり楽しめるところを紹介するよ。3、21バーツでね。以上3点が何回も繰り返され、僕はその誘いを断り続け、結局男はそれ以上の展開をあきらめて去っていった。ただの人の良いおせっかいのようでもあったし、ひどく悪い奴のようにも見えた。いずれにしても関わり合いを持たない方が良いとダズが僕に耳打ちし、僕はそれに従った。
角を曲がるとそこは大通りにつながっていて、先ほどとはうってかわって大勢の人や車で賑わっていた。通りの両脇には所せましとパラソルやテントが張られ道路までせり出していた。地べたやテーブルにパパイヤのような青いフルーツが陳列され歩く場所がないほどだった。大通りに平行して中くらいの大きさの川が流れていて、どぶ水のような臭いを放っていた。川には橋がアーチ状に渡されていて中央にようやく人がひとり歩ける程度の通路を残し、屋台がびっしりと出店されていて、どの店でも同じ青いパパイヤが売られていた。対岸に渡ると、そこには更にディープな世界が広がっていた。
バンコクの夜市の事はガイドブックで読んで知っていた。おそらく僕が目にしているのがそれだった。それは僕に戦時中の闇市を連想させた。とてもではないけれど日本からの旅行者=つつましい家族連れやハネムーンのカップルが旅行ガイド片手にショッピングを楽しむような雰囲気ではなかった。とにかく、スリやひったくりにあわないように、それから物乞いにたかられないように、神経を尖らせながら歩いた。僕の格好と言えば、半ズボンにしわくちゃのシャツ、すすけたコンバースに裸足をつっこみ、使い古したメッセンジャーバッグをたすきがけ、渋谷あたりだったら知り合いに出会くわしても無視されてしまいそうなみすぼらしい出で立ちだったけれど、僕がローカルの人間でなくて外国からやって来た旅行者である事は一目瞭然だった。好奇心の強い旅行者。カモるには最適だ。
もっとも僕の心配をよそに、人々は僕に対して全く無関心、僕に話しかけて来る者はいなかった。話しかけるどころか僕は彼らの視界にさえ入っていないようだった。バンコクの物売りは客引きをしないんだ。のんびりと店先に座ってただ客が来るのを待っている。「買いたい人がいれば買えばいいじゃん。」ってな具合である。そんな中、先ほどホテルの出口で声をかけてきた男とまた出くわした。後をつけて来たらしい。どうやらただのおせっかいではなさそうだ。男があきらめるまで同じ会話、同じやりとりが繰り返され、無駄な時間が流れ、結局、男はあきらめて去っていった。1時間ばかり市の中を物色して歩き、途中で見つけたコンビニエンスストアでビールを買った。屋台の麺やら何やらに大変興味があったのだけれど、正直に言おう。到着したばかりでビビってたのだ。結局、夜市では何も買えずにホテルに戻ったのである。
ビールを冷蔵庫にしまいホテルのレストランに入った。店内に客の姿はまばらだった。窓際の席に案内された。ビールとシーフードのカレーとライスを注文した。ビールは冷えていて、カレーはこれまで食べたタイカレーの中でも一番と思えるぐらいおいしかった。ライスをおかわりして満腹になった。給仕に、この窓からラジャナムダンスタジアムは見えるかと聞いてみたら、ちょうど建物の裏側に隠れているとの事だった。いずれにしてもスタジアム周辺は反政府主義者らの集会の中心地になっていて会場は閉鎖されている可能性が高いらしい。ここまで来て試合が中止になるのは到底受け入れがたいが、そうなるとしてもそれはまだ明日のことだった。支払いを済ませて部屋に戻った。料金はホテル仕様のはずだったが、計算違いをしたんじゃないかと思うぐらい安かった。
あれだけ食べたのにもう腹が減っていた。ホテルを出てまたコンビニエンスストアに行ってインスタントのヌードルと袋菓子、ミネラルウォーターを買って部屋に戻った。湯沸かしポットにミネラルウォーターを入れプラグをコンセントに差し込んでスイッチを入れようとしたが、うんともすんとも言わなかった。水を入れ蓋をしてプラグをコンセントに差し込みスイッチをオンにする。湯沸しポットを正常に作動させるためにそれ以上の方法があるとは思えなかった。僕はポットが故障していると確信したが、先ほど故障を確信したセーフティーボックスと電話は僕がフロントと部屋を往復するわずかの間に正常化していたのだ。今回も全く同じ事が起こるに違いない。カップヌードルはあきらめるべきと考えて、テレビを眺めながら袋菓子を食べビールを飲んで風呂に入り二つあるダブルベッドのひとつにもぐり込んで寝た。
起床。窓から外を眺めてみた。ホテルを囲むようにして廃墟のような古い民家がびっちりと建ち並んでいて、ホテルのリゾート風なムードと強烈に対比していた。上階から見るホテル周辺の様相はまるでスラムだった。ただ、そこには人が生きて生活しているというリアリティーがあり、ある種のエネルギーを感じることができた。フェイクなのは僕のいるサイド、つまりホテルのプールやらウッドデッキのテラスやら南国調のヤシの木やらの方だった。
朝食はバイキング形式だった。クロワッサンやオムレツには目もくれず朝からフライドライスや野菜炒めなどのタイ料理を選んで腹一杯食べた。身支度を整えてホテルを出た。湯沸し機が壊れているかも知れないのでチェックしてくれとメッセージをメモ書きにして残しておいた。驚いたことにホテルの外は昨夜とは全くの別世界だった。人っ子ひとりいなかった通りは洋服を売る屋台で埋め尽くされていた。ガレージが閉まっていた店舗も元気にオープンしていて活気があった。アロハシャツや半ズボンから女性の下着やロックTシャツまで、ありとあらゆるタイプの洋服屋が何百店も出店されていた。明らかに偽物とわかるブランド品を扱っている店もあった。
暑かった。歩き出してまだ数分だというのに僕はすでに汗をかき始めていた。耐えられない暑さというわけでもない。夏生まれの僕はもともと暑いのが好きなんだ。頭の中の地図をたよりに歩いた。距離感がいまいちつかめなかったけれど、市内の主要部の位置関係はだいたい把握しているはずだった。川沿いの道を歩いた。通りの左側には建物がつらなっていて、1階にはだいたい何かの店舗が入っていた。セメントなどの資材を扱う店、バイクの部品を売っている店、額縁屋。どこの店も閉まっているか、開いていても人がいないかのどちらかだった。交通量は多く、車やバイクや三輪車が排気ガスをまきちらしながら忙しそうに通りを行き交っていた。人通りはほとんどなく、と言うよりは全然なく、見たところストリートを黙々と歩いているのは僕だけだった。バンコクの人は徒歩で移動しないのかも知れないと思った。
交差点の角に警察官が数人立っていた。よく見ると警察はあちこちにいた。肩から銃を下げた軍人の姿もあった。ブロックごとに警察や軍人の数が増えていくようだった。進行方向の先の方から演説らしき声が拡声器を通し風に乗って流れて来た。軍人の数は増え続け、ついには軍隊と呼んでもよいぐらいの数になった。兵隊のひとりに何が起きているのか聞いてみたが困ったような表情をするだけで答えは帰って来なかった。勤務中は通行人と会話してはいけないという決まりなのか、あるいは単に英語が喋れないのか。
かわりにそばに立っていた男が話しかけて来た。赤いサッカーのユニフォームを来て時代遅れのサングラスをかけている。他のバンコクの人間同様、悪人にも見えたし、人のよいおせっかいにも見えた。ラジャダムナンスタジアムはどこかと聞いたところ、その先の角を曲がったらすぐとの答えだった。僕の頭の中の地図とだいたい一致していた。男に礼を言って角を曲がったら一面が赤で占められていた。一見、日本の祭りと似た光景だった。広場に何百件もの出店が立ち並んでいた。まだ午前中だったので、人の出はこれからという印象だったが、早々と到着した人々が楽しそうに行き来していた。飲食の出店も所々にあって、タイ料理特有の香りが周辺に漂っていた。
出店のほとんどはTシャツやバンダナなどを売る屋台だった。その商品すべての色が鮮明な赤だった。店の人間もみな赤いTシャツを着ていた。行き交う人々も赤い服を身にまとっていた。路上で寝ている人も、階段に腰掛けている人も、子供もおっさんも女の人も、浦和レッズvs鹿島アントラーズの試合会場に来たみたいにすべての人間がみんな赤い格好をしていた。演説をしている声が広場中に響いていた。反政府主義者による政治的な演説としてはずいぶんやわらかい喋り方、お坊さんの説法のように聞こえた。
先ほどのサングラスの男が僕のななめ後ろを一定の距離を保ちながら歩いていた。ダズはそれに無反応だった。僕はこちらから距離を縮め男と肩を並べて歩いた。ここだよ。男が指差した先にラジャダムナンスタジアムはあった。入り口にホワイトボードがかかっていて今日の試合の予定が書かれていた。「ヒロキ フロム トーキョー」とサングラスの男がホワイトボードに書かれた文字を指でなぞりながら読んでくれた。どうやら今夜の試合は予定通り開催される様子だった。スタジアムの看板とエントランスをカメラに収め、サングラスの男に挨拶をしてその場を後にした。
僕が理解するところによると、すべての大通りの中心に王宮が位置していた。だから道に迷ったら大通りに出て、中央に向けてひたすら歩き続ければいつかは王宮にたどり着くというわけだ。王宮とホテルとラジャダムナンスタジアムの位置関係はだいたい把握していたから、迷子になってもまあどうにかなるはずだった。初めて訪れた街では、とにかく歩いて歩いて歩きたおすのが街を知る最良の方法だ。ラジャダムナンスタジアムから王宮までの道のりをあみだくじ式にひたすら歩いた。どの道もひどく渋滞していた。排気ガスで空気が濁っているのが目に見てとれた。いくつかの道は通行止めになっていた。
あちこちに警察や兵隊の姿があった。街の作りはどことなく浅草周辺の商店通りを連想させた。日用品を扱う店から巨大な仏像を売る店まで、ありとあらゆるタイプの店が軒を連ねていたが、ほとんどの店が営業していなかった。おそらくはデモ集会の影響だろうと僕は思った。それでも歩道には食べ物や飲み物を売る屋台がぽつぽつと出店されていた。どの通りでも人の姿はまばらだった。歩道を歩いている人間も少なかった。時おりすれ違う人も、屋台の売り子も、車の人たちも、警察や兵隊たちも、あいかわらず、僕には全く無関心だった。
売店を見つけてビールを買った。ビールはよく冷えていた。先進国的な冷え方だった。一気に飲み干してまた歩き出した。ジグザグに歩いているうちにふと目の前が開けて王宮エリアに到着した。初日に基本的な観光ポイントを押さえておくのが僕の予定だった。寺だの城だのにはたいして興味はないけれど、せっかくバンコクまで来たのだからまあ大仏ぐらいは拝んでおくべきだと僕は考えていた。観光の中心地だというのに人の姿はなくあたりは静まりかえっていた。さあどうするかと考えていたら男が笑顔で話しかけて来た。男によると1時まで王宮などすべての施設は閉まっているとの事だった。詳しくはよくわからなかったがどうやらデモとは無関係のようだった。なるほど。
トゥクトゥク(三輪車タクシー)での市内観光を男は勧めた。数カ所の観光ポイントを回って1時にここに帰って来るコースで40バーツ程度だと言う。男が僕の事を「サー」と呼ぶのが妙に気になったので、僕は男の提案を無視することにし、礼を言ってその場を後にした。それ以上しつこくつきまとうわけでもなかったので、もしかして男はただのおせっかい好きだったかも知れないと思い始めていたら、後ろからやって来たトゥクトゥクが僕を追い越して止まり、先ほどと同じ市内観光を勧めてきた。市内数カ所を回って1時にここに帰って来るコース。40バーツ。
これは完全に怪しいと僕は思い、ダズがそれに同調した。断りを入れていたところ、いつの間にか先ほどの男が戻って来て、今度はふたりがかりで交渉をしてきた。ひとりだろうがふたりだろうがノーはノーである。絶対にノーを繰り返していたらトゥクトゥクのドライバーが泣きそうな顔になって30バーツではどうだと言って来た。もちろん答えはノーだ。ドライバーがあきらめたのを見届けて先ほどの男もその場を去って行った。笑顔が消え、しっかり悪人の顔になっていた。
ともあれ1時まで施設が閉まっていると言うのはおそらく本当らしかった。時刻は11時といったところか。僕は王宮に背を向けて歩き出した。しばらく歩いたところで川につきあたった。ふと川沿いの建物に目を引き寄せられた。学校か役所を思わせるような作りの建物でどうやら1階部分が食堂になっているようだった。入り口にワゴンが置かれテイクアウト用にパッケージされた食べ物が販売されていた。
中に入ってみるとそこはやはり食堂で外から想像するよりもずっと広かった。30台ぐらいの長テーブルにそれぞれ10席程度の椅子がセットされ、それを取り囲むように10店ぐらいのキッチンがコの字型に配置されていた。日本のショッピングセンターによくあるセルフサービスのフードコートと同じようなシステムらしかったが、店内はうす暗く全体的に古ぼけていてフードコートと言うよりは刑務所の食堂のようだった。冷戦中の東ヨーロッパを訪れた時に同様の施設があったのを思い出した。
ランチにはまだ早いのか客の数も少なかった。あたりまえと言えばあたりまえなのだけど、どの店でも売っているのはタイ料理だった。適当なブースで野菜と魚とライスを注文したらスープまでついてきた。ドリンクブースで買ったビール1本よりも安かった。食堂内は決して清潔とは言えず、ハエもぶんぶん飛んでいて衛生的に多少問題はありそうだったけど、まああまり気にしない事にした。料理は本当においしくて感動した。ビールもやっぱりよく冷えていた。
僕が食事を食べ終わる頃になると、ちらほらとお客がやって来だした。労働者風の男たちを中心に、年配者もいたし、日本で言うところのOLらしき女性たちの姿もあった。日本人はもとより外国人は気配すらなかった。建物を出てから気がついたのだけれど、その食堂はもしかしたらその建物で働く人たちのためにあるのかも知れないと思った。僕は全く部外者ということになるのだけれど、ここでもやはり人々は僕に全く無関心だった。
やみくもに歩いているうちにエスプレッソの看板を見つけた。旅行期間中はすべて現地の物しか口にしないつもりでいたけれど、コーヒーだけは別、ちょうど食後のコーヒーが飲みたいと思っていたところだったので入ってみたらカフェという雰囲気ではなかった。目に見える状況を頭の中で整理したところ、そこはおそらく薬局だった。薬局にカフェコーナーが併設されている店だ。カウンター内には家庭用のコーヒーマシンが設置されていて、エスプレッソを注文すると女性の店員が紙コップで薄くて量の多いエスプレッソを出してくれた。東京でも20年程前にはこのようなエスプレッソが出回っていたことを思い出した。
窓際のハイカウンターに席を取った。店内に1台だけある2人がけの丸テーブルでは男性客がひとりで新聞を読みふけっていた。窓の外の歩道ではフルーツを売るワゴンが出店されていて、中年の女性が器用な包丁さばきでパイナップルやらすいかやらメロンやらをカットしていた。フルーツの売れ行きは好調だった。ワゴンはフルーツ売り専用らしく、非常に使いやすそうに設計されていた。ガラスばりのケースに氷が敷かれフルーツが涼しげにディスプレーされている。ケースの上がうまい具合に作業台になっていてパラソルを差すためのパイプまで付いている。実にバンコク的だ。ぱっと見は無秩序なんだけど、それぞれ細かいところが合理的で、全体としてはけっこうスムーズに物事がすすんでいると言うのが僕のバンコクの印象で、それを滞在期間中何度となく感じ続けることになった。
薬局カフェを出てしばらく歩くと巨大なショッピングセンターがあったので入った。日本にあるイオンなどのショッピングセンターとたいして変わらない雰囲気だった。スーパーマッケットやレストラン街、それとは別にフードコートもあった。フードコートでは日本でおなじみのファミリーレストランも出店していて丼物などがオン・メニュ-されていた。眼鏡屋があったのでレイバンの値段を確認してみたら、日本で買うのと同じか少し高いぐらいだった。コーヒーショップのメニューを見たらアイスコーヒーがあったので注文した。砂糖もミルクもいらないと言ったつもりだったが、出て来たのはおそろしく甘い飲み物だった。コーヒー牛乳に練乳を入れたような味だ。もっとも決して嫌なテイストではなく飲み終わる頃にはすっかり好きになっていた。
そろそろ王宮方面に向かってもよい時間だった。ショッピングセンターを出たところでトゥクトゥクが客待ちをしていた。ガイドブックにはトゥクトゥクにはなるべく乗らない方がよいと書いてあったが、まあ多少の冒険も必要だと思った。王宮までいくらかと聞くと300バーツと言われたので半額で交渉した。市内は通行止めだらけで回り道をしなきゃいけないとかの理由でそれにはなかなか応じず結局200バーツで話がついた。まあ値切れたのでその場は満足したのだけれど、それでもかなりボられていたことに気がついたのはずっと後になってからだった。
ただ、食べ物やビールのプライスから判断してずいぶん高い値段だったので、多少はやられているかもという気はしていた。ちなみにガイドブックにはトゥクトゥクの適正な料金については何も書かれていなかった。もっともトゥクトゥクライドそのものは決して悪いものではなかった。エンジンの振動が心地よく、後部座席からの市内の眺めも歩いているのとは違って見えた。周辺の建物に今にも接触しそうになりながら車の間を縫って街なかをクルーズするのはとてもエキサイティングだった。
王宮周辺には4カ所、バンコクを訪れた旅行者が必ず足を運ぶポピュラーな観光スポットがあるとガイドブックにはあった。観光のノルマとしてその中のひとつ、すなわち大仏殿を訪れるのが僕の予定だった。大仏は思っていたよりも巨大で光り輝いていた。想像を超えて感動したという程のものでもなかったが、しっかり写真は撮った。僕の本質はミーハーなんだ。そういう自分のことを僕は恥じているし憎んでもいる。
辺りには英語はもとよりイタリア語やドイツ語などが飛び交っていた。ヨーロッパの人たちはよくカメラを首から下げたアメリカや日本からの観光客を馬鹿にするけれど、彼らだってじゅうぶんすぎるぐらい馬鹿っぽく見えた。
大仏のある寺の敷地内は広く、ゆっくりしていたら1日では見きれないぐらい多くの建物や仏像などがあるようだった。修復中の建物もあった。寺でマッサージを受けられると聞いていて、これは体験しておくべきだと僕は考えていた。タイ式のマッサージには少なからず興味があったし、寺の中にある施設ならぼったくられる事もないだろう。担当者は若い女性だった。まだ経験が浅いからかも知れないがマッサージは特筆する程すばらしいものではなかった。ツボの位置も微妙にずれていたし、力も足りなかった。もっとも僕はこれまでにマッサージを受けて満足したという経験がほとんどない。もしかしたら施行する側ではなく、される僕の方に問題があるのかも知れなかった。担当の女性に礼を言いチップを渡したが反応がいまいちだったので、チップの額が不当に少ないのかと思い、着替えた後に追加のチップを手渡すと今度は明るい笑顔になったので安心した。
時間に余裕があったので、もう1カ所の観光スポットに行くことにした。川を渡った先に塔があり、渡し船の乗り場は徒歩数分の所にあるらしい。観光客らの流れを見て乗り場を探し当てた。周辺には魚の腐臭がたちこめていた。船に乗って川を渡った。乗船時間は3分程度。古くなったディズニーランドで遊んでいるような感覚で、僕はそれをけっこう楽しんでいた。ディズニーランドで中年のおっさんがひとりで船に乗って喜んでいたら、まわりから変な目で見られるところだろうが、ここはバンコク。誰も僕のことは気にしていなかった。
川は太く水は豊富で濁っていた。所々で熊1頭分ぐらいの大きさの浮遊物が水面を漂流していた。下船するとそこはのどかでピースフルな世界だった。民家やビルがなく空が広かった。庭園はよく整備されていてゴミひとつ落ちておらず、きれいに刈り込まれた芝生の青が目にまぶしかった。敷地が川に面していて道路から隔たっているおかげで排気ガスや騒音からも解放されて静かだった。対岸の景色もなかなか見ごたえがあった。
ロンドンにはテムズ、パリにはセーヌ、バンコクにはチャオプラヤー。僕の好きな街にはいつも川がある。大きな川に大量の水が流れているのを見るのが好きなんだ。そう言えば上海にも大きな川があった。
敷地の中心に塔が立っていて、階段で塔の中腹まで上れるようになっていた。急な階段を上って景色を眺め、写真を撮って階段を下りた。ふもとでフルーツ売りのワゴンが出ていたのでパイナップルを買った。すかすかした味で少々物足りなかった。ビールが飲みたかったが売店ではアルコール類を取り扱ってないようだった。仏教徒の施設なんだからしょうがない。対岸に戻るために渡し船の乗り場に行くとチケットもぎりの女性が孤児風の子供たちを激しく叱咤し追い払っていた。来た時と同じように川を渡った。
船を降りた周辺には観光客ら相手の土産物を売る店や食堂が集まっていた。適当な食堂を選び歩道に出されたテーブルに席を取ってチャーハンとビールを注文した。チャーハンにはエビとパイナップルが入っていて非常に美味だった。ビールはやっぱりよく冷えていた。タイの食堂ではどこに行ってもテーブルに薬味入れが常備されている。出される料理にはもともとしっかり味がついているのだけれど、それに唐辛子やグラニュー糖、ナンプラーなどで好みに味にして食すのがスタンダードであるようだ。僕は辛いものを食べると頭部と顔面から激しく発汗する。おそらく体質的にはスパイス類が合ってないのだと思う。でも体に合う合わないと好き嫌いは別の話、てんこ盛りの唐辛子を目の前にしたら無視はできない。食事に関して言えば僕はマゾヒストである。
勘定を済ませてから手持ちに小額紙幣がないことに気がついた。ホテルまでタクシーで帰る予定だった。タクシーでは高額紙幣が使えないとガイドブックに書いてあった。お金をくずすつもりでコンビニエンスストアに入った。ビールを買おうとしたら今の時間はアルコールの販売ができないと言われたので仕方なく水を買った。
タクシーを拾ってホテルの名前を言ったがうまく伝わらずホテルのカードキーを見せても反応が悪かった。ラジャダムナンスタジアムまで行けばそこからの道は僕でもわかると思い、それを告げたところタクシーを降ろされてしまった。次に乗ったタクシーのドライバーはホテルの場所を告げるなり150バーツでどうかと交渉してきた。また降ろされてはかなわんと思いそれを承諾した。ドライバーがたおしたメーターを戻して車がスタートした。かなりふっかけてこの値段なのだろうから、本来だったら半値以下の料金なのだと推測できた。先ほどのトゥクトゥクがいかにぼったくりだったかがここで判明した。
今回のドライバーは英語が堪能だった。通りがかりの建物を指差してきのうそこで爆弾テロがあったと教えてくれた。渋滞のピーク時らしく道路は激しく混雑していた。それでも何故かタクシーは前に進んでいた。アンテナに取り付けた赤い布をひるがえしながら走っている車やバイクの姿をちょくちょく見かけた。反政府主義のシンボルらしかった。赤い布を付けた者同士でクラクションを鳴らしたり、手を合わせて拝んだりと、挨拶を交わし合っている姿もあった。会話の内容からタクシーのドライバーもどちらかと言えば反政府のスタンスに立っていることがうかがえた。車に赤い布を付けないのか聞いてみたがそれには無反応だった。
途中、ドライバーが車をガソリンスタンドに止めて、ちょっとトイレに言って来ると言い残していなくなってしまった。悪い事が起こってもおかしくないと思い、いつでも逃げ出せるように体の筋肉を緊張させたが、それは取り越し苦労に終わった。
ホテルの部屋に戻ってシャワーを浴びた。ゴンキックのTシャツに着替えたらスイッチが入った。魂の炎がめらめらと燃え始め、体の中を血が逆流した。「恐れ」が僕の体から消え去った。何も恐くなかった。デモ隊が、あるいは軍隊が、束になってかかって来ても素手で立ち向かうことができると思った。緊張をほぐすために鏡の前で軽くシャドーボクシングをした。深呼吸をして通りに出た。
午前中に歩いたのと同じ道を歩いてラジャダムナンスタジアムに向かった。背筋を伸ばし肩で風を切って意気揚々と歩いた。何も恐くなかった。強盗に襲われても退治する自信があった。通りをすれ違う人は僕のために道をあけ、車もバイクも僕をよけた。ピストルの弾だって僕をよけるんじゃないかと思った。
会場に近づくに連れて辺りがだんだんにぎやかになっていった。昼よりももっとたくさんの赤い人たちが広場中を覆い尽くしていた。警察や軍隊の数も半端ではなかった。道路では渋滞の車が完全にスタックしていた。演説の声があちこちのスピーカーから大音量で流れていた。確かに尋常ではない状態ではあったけれど、反政府主義者らによる真剣な政治集会にしては少し緊迫感に欠けるような気がした。政治集会と言うよりはお祭りだった。人々の表情に怒りや哀しみはうかがえなかった。彼らは皆このお祭り騒ぎを楽しんでいるように見えた。(もっともこれは単なる見せかけの戦争ごっこでなかった。デモ運動はこの後も拡大し続け、この日から約3週間後、ついにデモ隊と軍が衝突し何人もの死傷者が出る惨事になった。日本人カメラマンが流れ弾に当たって命を落とされたことは記憶に新しいかと思う。ご冥福をお祈りしたい。)
表の喧噪が嘘のようにラジャダムナンスタジアムの中は静かだった。冷房がよく効いていて少し肌寒いぐらいだった。会場は全体的に薄暗く、照明が中央のリングをぼんやりと浮かび上がらせていた。高尚な寺院を訪れたかのような神聖な空気が辺りを支配していた。どうやら僕が今晩最初の客らしく客席に人の姿はなかった。係員に通されたのはリングサイド一番前の席だった。椅子に座ったとたんに何とも言えない安堵感に包まれた。
この椅子、この椅子が僕の目的地だった。思っていたよりも遠かった。まず最初にまわりを説得するのに苦労した。僕のビジネスはとても好調とは言えず支出が収入を大きく上回っていて生活も楽ではなく、とても悠長に旅行を楽しんでいる場合ではなかった。半ば強引に了解を得て、航空チケットを取ろうと思ったらほとんどがソールドアウトだった。インターネットでようやく見つけた航空券は支払いがクレジットカードに限定されていた。僕はクレジットカードを所有しておらず家内のクレジットカードで購入しようとしたら旅行者と購入者の名義が不一致のため跳ね返され、現金決済しようと航空会社に電話したら、ネット限定のチケットだと言う理由で跳ね返される始末。どうしてもあきらめきれずもう一度航空会社に電話したところオペレーターが善い人間で、同じ航空会社の海外サイトにアクセスしてしかるべき手続きを踏めば他者名義のクレジットカードでもチケットが購入できることを教えてくれた。言われた通りに英語版のサイトに入って無事航空券を予約した。多少なりとも英語を理解できることがこんなに役に立ったのは生まれて初めてだった。海外旅行におけるクレジットカードの重要性を学んだのでこちらもさっそく申し込んだところ旅行の前日に届いてぎりぎりセーフ。と思ったら荒天で成田までの電車が止まった件は冒頭の通り、バンコクに着いたら着いたでこのデモ騒ぎである。
係員にビールを買って来てもらって飲んだ。今日何杯めのビールだろう?自分でもわからなかった。ぽつぽつと客が入り始めていた。ふと隣のコーナーに見たことのある白人がいるのを発見した。僕が通っているキックボクシングのジム「リキックス」の練習生だ。話したことはないが顔は知っている。普段は人見知りの激しい僕だったけれど、遠い外国に同じ目的で来ている者同士なわけだから、ひと声かけるのが礼儀と思って話しかけた。予想通り僕のことは知らない様子だった。自己紹介をしたら、ほうそうかいまあ隣に座んなよ。という感じですぐに打ち解けた。カナダ人の彼は日本での生活も長く、ほぼ完璧な日本語を喋ったが、我々は何故か英語で会話した。今夜の試合のことやエロ話をしているうちに、よくジムでいっしょになる練習生たちが登場してきた。急に試合が決まったわりにはけっこうな数の応援団ができたものだ。彼らと挨拶をかわし、旅行者でも練習ができるムエタイジムの情報を得た。ひとりの女性から日本国旗とマジックペンを手渡されたのでメッセージと名前を書いた。
ほどなく前座の試合が始まった。10才にもならないような子供同士のボクシングだった。子供のファイトには賛成できないと隣でカナダ人がつぶやいた。子供たちが金欲しさに戦っていることは事実だと僕は思う。彼らが戦いそのものを好んでいるかどうかは僕の想像の範疇ではなかった。
試合の内容はなかなかのものだった。あんなパンチを子供の時から受けていたら、あんまり長生きはできないんじゃないかと思った。客の姿はまばらだった。向かいのコーナー側はほとんどが空席だった。これからタイトルマッチが行われるにしてはあまりにも静かすぎる。デモ集会の影響じゃないかなとカナダ人が言った。僕もそう思った。
前座の試合は続いていた。次に出て来たのは中学生ぐらいの子供で、サイズが大きいだけに見応えがあった。僕は応援団のみんなに挨拶をして自分の席に戻った。そのままみんなと一緒にいても誰も文句を言わなそうだったけれど、周りのことを気にせずにいたかったのだ。前座のボクシングが終了し、ほぼ定刻に第1試合が始まった。何だかいろいろめちゃくちゃなんだけど、だいたい予定通りに物事が進行するのがバンコクだ。
あいかわらず客の姿は少なかった。試合を見ているうちに突然睡魔が襲って来た。昼間から飲み続けたビールが今になって効いて来たようだった。こんな所で寝てしまうわけにはいかない。必死になって眠気と戦ったが意識はどんどん遠のいていくばかりだった。途中で売り子がスナック菓子を売りに来たのでポテトチップを買って食べた。口を動かすと眠気が去ったように思ったが食べ終わるとまた眠くなった。そうこうしているうちにあっと言う間に3試合が終了した。途中KOで試合が決着したような気がする。よく憶えていないのは寝ていたからに違いない。
ふと会場内を見回すと、いつのまにかお客の数が増えていた。後方の立ち見席にはたくさんの人影が重なり合って僕ら観光客の座るリングサイドの席を取り囲んでいた。掃除機に吸い込まれるようにして睡魔が去って行き、また炎が燃え始めた。
ざわめきをバックグランドに石井宏樹が入場して来た。アナウンスもなければ入場曲もない。花束の贈呈もないしリングコールもない。もちろんラウンドガールだっていない。セコンドには当然小野寺会長、藤本ジムの緑川選手も付いている。リングサイドには藤本ジムの会長、新日本キックボクシング協会の伊原会長の姿も見える。後楽園ホールの一部分をハサミで切り取ってそのままバンコクまで持って来たような光景だ。
タイの民族音楽が流され両選手がワイクルーの舞いを神に捧げる。ムエタイ特有の不思議なリズム。石井選手はまるでタイ人のように美しく踊る。僕も心の中でいっしょに踊る。これはタイトルマッチだ。勝った方がチャンピオンになる。これは国際試合だ。石井宏樹の敵は日本にはいない。何人もの選手を打ちのめして石井選手はここに来た。文字通り日本を代表してここにやって来たのだ。だからこれは日本とタイの戦いだ。同時にこれはキックボクシングとムエタイの戦いでもある。日本で生まれたキックボクシングは打倒ムエタイをひとつの目標として掲げて来た。相手の土俵で勝利してチャンピオンベルトを奪取することは日本のキックボクシング会の悲願であるのだ。ちなみにそれを成し遂げた日本人は石井選手の前に3人しかいない。歴史と国と我々ファンの思い、大量の血と汗と涙を背に石井宏樹選手はここに来た。すべてはこの1勝のために。
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ゴングが打ち鳴らされ最終ラウンドが始まった。会場のボルテージは最高潮に達していた。会場は正に選手と一体になって戦っていた。石井選手のすべての攻撃が相手選手を的確に捉えていた。声援の半分は今や石井選手に向けられていた。この見知らぬ日本人がタイ人を打ちのめせば彼らが賭けた金が倍になって戻ってくるのだ。ここまでは完全に石井選手のゲームだった。ただアウエーであることを考えると決定打が欲しかった。石井選手もそれを知っていて必死に攻め立てた。もちろん、相手選手もそれを知っていた。ダウンさえしなければ負ける可能性が低いということを。
残り時間が短くなって来た。タイ人の歓声に交じって日本語の声援も聞こえた。「ゴンちゃんがんばって!」僕の後ろの方で女性が叫んだ。石井選手のバックブローが相手のアゴをかすめた。「石井まとめろ!」と小野寺会長が叫ぶのが聞こえた。石井宏樹選手のセコンドは常に冷静沈着、どんな状況でも熱くなって取り乱したりすることはない。選手の様子を判断し静かに的確な指示を出すのが伝統の藤本ジム流だ。
会長の声が届いたらしく、石井宏樹の動きにスピードが増した。ノックアウトかレフリーストップにならない場合、勝負は判定に委ねられる。ラウンドの終了間際の戦い方はジャッジに大きな影響を与える。それまでリードしていたとしても最後に息切れしてはすべてが台無しだ。逆に後半に激しく盛り返せば、それまでに失ったポイントを取り戻せることだってある。残り10秒で試合がひっくり返ることも決してめずらしくはない。ここからが本当の意味での勝負の見せどころだ。
石井宏樹の最終ラウンド残り30秒からの戦い方は世界一美しい。フラメンコのダンサーがフィナーレを踊るかのごとく激しく華麗に舞い見る者を魅了する。パンチ、キック、ヒジ、ヒザ..すべての攻撃が容赦なく相手選手に襲いかかる。相手セコンドが必死の形相で選手にハッパをかける。彼らにしたってここで外国人にベルトを持って行かれるわけにはいかないのだ。けれども今夜は石井選手の方が一枚上、相手は組み付くのが精一杯だ。勝利はもう間近。会場の声援は怒号と化して場内を渦巻いている。もう何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。
ゴングが鳴らされて試合が終了した。勝った。僕は立ち上がってガッツポーズで何かを叫んでいた。いつから立っていたのだろう?まわりの白人たちが怪訝な目で僕を見ているのに気がつき、席について深呼吸をし、新たな歴史が始まるその瞬間に居合わせられたことを神に感謝した。あちら側のリングサイドにチャンピオンベルトが用意されているのが見えた。いつもはクールな小野寺会長も心なしか微笑んでいるように見えた。ひとりめのジャッジの判定が読み上げられた。会長の表情が一転して強張った。
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トイレに行って用を足し、そのまま外に出た。出口で係員が再入場のために星形のスタンプを押してくれた。まだ5試合以上が残っていたが、僕はそこに戻るつもりはなかった。広場ではあいかわらずデモ集会の人たちがさわいでいた。それはどこか遠くで起こっていることのように思えた。度の合ってない眼鏡をかけたみたいに目の焦点が合わず、あたりがすべてぼんやりとして見えた。空気は生温かかったが僕の体は冷えきっていた。足がふらついて手の感覚が鈍かった。通りの人には薬の切れたジャンキーのように見えたかも知れない。でもあいかわらずバンコクの街は僕の存在には無関心だった。