カテゴリー別アーカイブ: ことば、エッセイ、ポエム

朝の写真

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薄曇りの夏の朝。出窓に入ってくる光線が弱いせいか、偶然おもしろい色の写真が撮れました。構図もマイテイスト的にはけっこうイケてると思うのですが、左の観葉植物の植木鉢に刺さったプレートの緑がすべてをだいなしにしているようにも感じられ、もういちど撮り直してみたのですけど、うまくいかず。トリミングしたのではせっかくの世界観がだいなしになりそうですので、これはこれで完成と思うことにしました。

中央の雑誌は1988年のSwitch。おととい訪れた我孫子のNORTH LAKE CAFE & BOOKSで入手しました。濃厚な内容のヴィムヴェンダース特集で、見がい、読みごたえたっぷりの保存版。今どき、わざわざ写真に撮って残したいと思うような雑誌に出会えることは稀、このところ新しい発見は過去の中にあることが多いような気がします。いや、もしかしたら僕の美を求める感覚が1990年ぐらいでストップしているのかも知れません。

ここ数日、朝イチで写真を撮ることが日課みたいになっています。ずっと続けるとおもしろいかも。

ジャングル

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土地の境界線の確認作業に立ち会ってきました。僕がまだ子供の頃に祖父から譲り受けた土地らしく、おそらくその当時はそれなりに価値があった(あるいはその後価値が上がると想定していた)のだと思うのですが、現在は見ての通りのジャングル状態で、どうにもなりません。聞けばもともと畑だったところにわざわざ植林したのだそうで、おじいちゃんとしてはきっと「金に困ったら木を切って売ればよかろう。」というようなつもりでいたのでしょう。今や木の値段よりもそれを切るコストの方がずっと高く、もくろみは外れたわけなのですけど、うっそうと茂った木々のエネルギーをそのまま「愛」だと解釈すれば、ああ自分はご先祖様に愛されているんだなと感じることはできます。何もこんな南国調の木を植えることもなかったような気はしますけど。

ボックス

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起床してからの行動は何時に起きてもほぼ毎朝同じ、その動きやルートも時間の経過と共にどんどん固定化されていくように思います。

我が家には親の代から譲り受けた仏壇と神棚がありまして、毎朝これらに祈りを捧げる短い儀式があります。水、お茶を取り替えて手を合わせ、頭を下げるだけの簡易的なものですが、これがないと一日が始まりません。僕自身は実際そこまで真神深くはないですし、特定の教えに深く関わることにはむしろ懐疑的なスタンスに立っている人間ですが、ご先祖様をはじめ、海、山、自然らに敬意を表し、感謝の気持ちを持って祈りを捧げる行為は、うむ、まあそう悪くないものです。むかし「人には神を信じたいという欲求が備わっている。」と言った人がいますが、たぶん、そういうことなのでしょう。

祈りのあと、観葉植物の様子をチェックしたり、庭のオリーブに水を与えたり、カメの水槽を掃除したりなどの作業が終わるのが起床から1時間後くらい。その間ずっと立ったまま動き回っているのですから、まあまあ忙しい朝と言えましょう。

熱いお茶を片手にやっとリビングの椅子に腰かけて、ノートブックを開け、メールやメッセージ、SNSをチェック。そしてこのブログへとたどり着きます。

ご存知、このブログはほとんど読者がおりません。しかし、更新は順調で、最近は回数も増えつつあります。なぜ誰も読んでいないブログをテンション落とさず長期に渡って続けていくことができるのか?

答えは複数あると思うのですけど、この行為(情報をアウトプットすること)が自分にとってある種「癒し」になっていることは間違いありません。「救い」と言ってもよいかも知れない。メカニズムはよくわかりませんが、これがなければ僕の日々の生活はもう少し窮屈で苦しいものになっているような気がします。

受け手の存在はブログ更新のモチベーションにあまり関係ないようですが、しかし、全く誰も聞いていないというのではストーリーが成立しません。(それならわざわざオンラインで世界中に向けて恥を発信する必要はありません。)もしかしたら誰かが見てくれているかも知れない。その「もしかしたら」が重要で、実際に読者がいるかどうかは、たいした問題ではないようです。

そんなわけでね。今日も「どうでもいい話題」のオンパレードです。

写真のボックスは、小物とかのディスプレー用に置いてあったところを近所のカフェで見つけ、無理を言って譲っていただいたもの。言ってみるもんだなあって思いました。

贈り物センス

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数ヶ月前、娘への誕生プレゼント用に剪定鋏を購入。

何で、こんなものを女子中学生がもらって喜ぶと思ったのか?

贈り物のセンスの良し悪しは生まれ持っての才能だと僕は思っています。自分の持ち物やライフスタイルは他人が羨むぐらい趣味がよいのに、贈り物のセレクションが全くなってない人は意外と多い。

かくいう自分も我ながらそのセンスが備わっていないと承知しています。例えば服や音楽に関しては、センスのなさを長年の学習と鍛錬でどうにかカバーできるようになってきた(と自分では思っている)のですけど、贈り物に関してはいくつになってもこの有様。自覚はあるのに変わることができない、おそらく自分の意思とか努力ではどうにもならない分野の話なのでしょう。

ただし、「女子中学生への誕生日プレゼント」という枠を外してしまえば、モノとしては非常に価値のある(そしてセンスのよい)この鋏。結局、娘に渡すことなく数ヶ月、静かに箱の中でたたずんでいましたが、今日、庭木の剪定作業をしたもんで、初めて使ってみました。切れ味、重さ、握り心地、どれをとっても素晴らしく、作業もはかどりましたよ。

以前、ベジタリアンの女性に狐の毛皮の襟巻きをプレゼントした男がいたけど、あれもなかなかひどかったな。

瞑想タイム

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さながらヴィムヴェンダースな1日。炎天下、全く人のいないビーチの脇で波が来るのをひたすら待ち続ける何かの修行のような午後でした。ある種の瞑想状態。退屈しないし暑さもぜんぜん気になりません。クリエーションの糧を求めてサーフィンをやっているわけでは全くないけれど、サーフィンによって感性が磨かれていく感覚はあります。

Birthday

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この人はオシャレだな。と思う人はたいてい持っているL.L.BEANのガムシューズ。僕も真似して買いましたが、実際に履いたのは数回程度です。本格的な雨の中やぬかるみを歩くような時はレインシューズを履きますし、普通の雨ぐらいならパラディウムで間に合ってしまうので、なかなか出番が回ってきません。なので20年ぐらいは持ってしまいそう。つまり、コイツもおそらく僕の人生で最後のガムシューズになるというわけだ。

最近そういう話題が多いですけど、特に死を意識しているわけでは全くなく、現実的にそれだけ「歳をとった」ということだと思います。

まあ、残りどれぐらい生きるのかはそれこそ「神のみぞ知る」ですが、なるべく「好きなもの」に囲まれて余生を過ごしたい。というのが、老後のささやかな希望であります。思えば長い人生、好きでもないもののために身を削り続けてきました。もうじゅうぶんなんじゃないかな。

そんなわけで本日、52歳の誕生日をむかえました。何はともあれハッピーバースデー、オレ。

お礼

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まさかのダウンから退院後、約3週間が経過しました。酒を抜いているせいもあるかとは思いますが、体調は入院する前より良くなっている感覚があります。

僕が患ったのは「腸閉塞」という腸が炎症を起こして機能不全に陥る病気で、直接的な原因は不明ですが、やはり日頃の不摂生、暴飲暴食(特に飲む方)が祟ったことは間違いないようです。

検査の際に腹部のレントゲンを撮り、見せていただいたのですが、まるで死んだ鰻の群れが桶の中で腐乱して浮いているような有様で、素人目にもこれはちょっとマズイことになっているのがよくわかりました。

普段は腸のことなんて全く意識したことはありませんが、こんなになるまで酷使してしまって腸に対して申し訳ない気持ちになると同時に、何も言わずに献身的にボロボロになるまで働き続けてくれた腸に「ありがたい」と思う気持ちも芽生えます。

病室のベッドの上で腸のことをあれこれ考えているうちに、ふと、ある仮説に導かれます。すなわち、「腸は独立したひとつの生命体なのではないか」というストーリーです。彼は僕の体内に存在しているけれど、僕の一部ではない。僕たちはお互い協力しあって生きている、言わば運命共同体。つまり腸は僕の「バディ」であるわけだ。

となると、はて、我々は何のために協力しあっているのだろう?という疑問が生じます。

その答えは頭を捻るまでもなくすぐにわかります。僕と腸が協力しあって成しているものごと=それは「うんこ」以外に考えられません。そう僕たちはタッグを組んで、せっせと「うんこ」を作っているんだ。

原始より動物の排出物は大地にとって重要な栄養分である。これには誰も異論がないはずです。もちろん人間の排出物も。

現在、我々の大便は処理場で分解されて海に流されるもの、つまり生態系の循環に寄与していないと思っていたのですが、ちょっと調べてみると、分解後の人糞を肥料やレンガ(うんこのレンガ?!)などに活用してもいるようで、我々のうんこも全く無駄の産物ではないようです。

そこまで細かく考えずとも、シンプルに人類がうんこを作るために存在するという事実を認めるならば、我々が抱える様々な日々の悩みなど取るに足らない小事にすぎません。地球を回すサイクルの中に自分の席があることを誇りに、腸という心強きバディと共にもりもりと良質なうんこを量産し、残りの人生をまっとうしてまいりたいと思います。

たくさんのお見舞いの言葉ありがとうございました。