ウイルス騒動で自宅にいる時間が長くなり、妻に任せっぱなしにしていた家事を多少分担することになった。いちおう食器などの洗い物と洗濯物のたたみ、それからゴミ出しは僕の役割ということになっている。
長く飲食業に従事していたこともあるので、洗い物は(何をやっても半人前の僕にしては珍しく)得意分野のものごとであると言ってもよいかも知れない。特に皿や茶碗など、形状がシンプルな食器を洗浄するのは成果が目に見えて気持ちが良い。逆に苦手なのはタッパーウェア。こびりついた油がなかなか取れずにイライラする。あとカトラリー類。あれは嫌だね。
時は1989年、僕は5年近くに及ぶ海外でのミュージシャン生活に区切りをつけ帰国、東京で新生活を始めようとしていた。当時のイギリスの暗く重い雰囲気の中で暗く重い音楽を演奏しながら生きていた僕の目には、ちょうどバブル期だった東京は煌びやかな魔法の世界のように見えた。最新のファッションに身を包んで街を往来する人々は勝ち誇った笑顔に満ち溢れ、男性も女性も誰もがとても魅力的だった。カラーテレビの中で自分だけが白黒でいるような疎外感はあったけれど、ロンドンの田舎から「上京」してきた僕にとって東京の人は憧れの存在だった。カフェに入ってコーヒーを注文するといった日常的なやりとりでさえ、芸能人と会話を交わしているような夢見心地な気分になったもんだ。
当時、渋谷パルコの確か地下だったと思うが、おしゃれな和製の食器や雑貨を取り扱っていたショップがあった。ちょうど新生活のための日用品を買い集めていた時期だったので、それとなく商品を物色していたところ、いい感じの箸が陳列されているのに目がいった。シンプルなシルエットの丸箸だったが、ざらざらとした手触りのカラーコーティングが施されていていかにもトーキョースタイル。カラーも淡い紫色など普通の和箸にはないムードで気に入り、すぐに購入を決めた。
おそるおそる商品をレジに持っていく。僕にとってはコーヒーショップの店員でさえ芸能人である。パルコの店員ともなれば、もはやスーパーモデルとかハリウッドスターレベルの超セレブだ。会計をするだけでもハートがドキドキする。店員はパルコの人間としてはかなり庶民派であるように見受けられた。愛想も良さそうだしお高くとまっている感じもない。僕の頭の中に「このセレブと会話を交わしてみたい」という欲求が渦巻いて来た。いちどそうなったら止めることはできない。
あ、あのう。この箸は何か特殊なコーティングがしてあるんですかね?
言ってみた。
そうですね。
素っ気のない返事だったが、悪い印象はない。少なくとも僕がロンドンから出て来た田舎者だということはバレてないように感じた。
あの、これってゴシゴシ洗ったりしたらコーティングが落ちたりしませんかね?
え?でも、お箸をそこまでゴシゴシ洗ったりしないですよね?
撃沈である。そうだ。彼女は正しい。東京の人間が、芸能人が、セレブが、箸をゴシゴシ洗うわけがない。そんなことをするのは田舎者だけだ。だいたい何なんだその意味のない質問は?コーティングが落ちたりしませんかね?だと?アホだ。アホだ、アホの質問だ。駄目だ。わかっていたのだ。彼女は最初から僕が田舎者であることを最初からわかっていたに違いない。恥ずかしい。違うんです。僕はただ店員さんとセリフを交わしてみたかっただけなんです。コーティングのことなんかどうでもよかったんです。すみません。田舎者が東京のセレブと会話をしてみたいと思ったりして身分不相応でした。
僕は顔を真っ赤にして半泣きになりながら支払いをして逃げるようにパルコを後にしたのである。あまりの恥ずかしさに東京で生活するのをやめてしまおうかと思うぐらいだったが、幸い反省の気持ちが持続しない性格である。やがて都会の生活にも慣れ、パルコで買い物をするのに怖気付くこともない図太い東京人へと成長した。後にパルコで働いている女性スタッフと友人を介して知り合って、少しいい感じになったこともある。結局付き合うところまでは漕ぎ着けなかったが、箸を買うだけでビビっていた時からすると随分な成長だったと言えよう。ただ、その「箸のやりとり」については自分の中で相当なトラウマになっているようで、今でも台所で箸を洗うためにその時のエピソードが脳裏に蘇る。箸はゴシゴシ洗わない。箸はゴシゴシ洗わない。箸はゴシゴシ洗わない。
その後パルコは解体されて、今年リニューアルオープンした。先日別件で渋谷に用があった際に、地下の駐車場を利用した。機械式の最新システムの駐車場に生まれ変わっていたが、細部に何となく以前の面影も残っていて、ああパルコはパルコなんだなあなんて、少々ノスタルジックな気分にも。用を済ませて車を出す前に店内を少し物色して歩いた。特に気になる店があるわけではないが、パーキングチケットの割引を受けるために何か気に入ったものがあれば購入しても良いと思った。ところがだ。
ところが、店内を上から下までざっと見て回ったが、欲しいものが全く見当たらないのである。もちろん大枚を叩いても良ければ手に入れたい高価なものはあるが、たかが駐車場の割引を受けるためにわざわざ清水の舞台から飛び降りることもない。
最近、欲しいものが売ってなかったり、行きたい店が閉店したりというようなことが多々あるが、それは商品や店の方に問題があるわけではなく、要するに社会の中における自分の存在(価値)がどんどん小さくなっているということの表れだと僕は考えている。生まれた時からずっと消しゴム擦り続けてるような人生だったが、いよいよ最後のひとつまみぐらいの大きさというところまでやってきた感はある。
店内にいたらどんどん駐車料金が加算されていく。このまま手ぶらで帰ろうかと思い、帰りのエレベーターに向かおうとしたらトムブラウンのショップがあるのを発見。ジャケット一着で車が買えるぐらいの狂った値段設定のブランドだが、小物やアクセサリー類は意外と手に入れやすかったりもする。特にネクタイはだいたい2万円台が主流で、それを身につけた際の高揚感からするとむしろ安いような気すらする。
で、買ったネクタイの入ったショッピングバッグを片手に意気揚々と駐車場に向かったわけである。そしたら何と、割引される駐車料金は2時間分オンリー。車は3時間以上停めたので、その分の駐車料金を支払って帰宅した。3時間分の割引を受けるためにはいくら買い物すれば良いのだろう?ま、パルコの駐車場に車を停めることは2度とないので、知ったところでもはや意味はないか。
何年たっても結局渋谷パルコは僕を受け入れてはくれなかった。きっと僕は消しゴムの擦りカスとしてロンドンの暗く重い空の下で暮らすべきなのだろう。東京の太陽は僕には明るすぎる。