ニック・ケイブ 20,000 デイズ・オン・アースを観た。新宿の小さなシアターで、毎晩9時から1日1回のみの上映。寒い月曜の夜とあってか客入りはまばらで寂しい。15人程度だろうか。40代が中心。若者の姿はない。(そりゃそうだろう。)女性の方が多い。
ニック・ケイブは、まあ普通に見て「ハンサム」というタイプではないと思うのだけど、あの独特のマスクを好む女性は多く、上を向いた鼻がチャーミングだとか太い眉毛が素敵だとか「ケイブの顔が好きだ」と公言する女性を何人も知っている。あの強烈な存在感が顔にまで滲み出るのだろう。彼女たちの言うことは男の僕にもわからないでもない。音楽や詩やパフォーマンス以前に、風貌に魅了されてケイブのファンになる人は少なくないはずだ。
ともあれ「美男子」を売りに活躍していた当時のミュージシャンたちが劣化した残念な姿を世に晒している中、ニック・ケイブは若い頃の雰囲気をそのまま保ちながらいい感じに年を重ねることに成功した数少ないアーティストのうちのひとりだと思う。
映画の冒頭では上半身裸の姿を見せていた。鍛えられた体ではないが、無駄なぜい肉はついておらず、腹も出ていない。髪の毛もたっぷりある。しわや皮膚のたるみは時の流れを感じさせるが、醜いという感じはしない。どこか哲学的なたたずまいは当時のまま、眼光は鋭さを増し、人間に重厚さが加わってより魅力を増したように見える。
作品は、ニック・ケイブの日常を追う「ドキュメント」の形式を取っているが、実際はしっかりとした脚本が存在するドキュメントタッチのフィクション作品と理解した。ニック・ケイブが「ニック・ケイブ」という「役」を演じるわけである。ややこしいのが、ストーリーの中にしばしばニック・ケイブ本人が登場してくる点。リアルなニック・ケイブとストーリー上の「ニック・ケイブ」がシーンの中で巧妙に入れ替わりを繰り返す。現実と非現実が交錯しあう空間に身を置いた観客はやがて自分の立ち位置がどこにあるかわからぬほどに作品の中に引き込まれていく。
もともとニック・ケイブは夢と現実の狭間を生きているように見えるところがある。大げさに言えば、人と神の間を行き来する「超人間」。劇中のセリフにはそれをうながすようなキーワードも仕掛けられている。もっともニック・ケイブ本人は映画の中できっぱりと神を否定していたけれど。
80年代に僕がロンドンにいた頃、ニック・ケイブは確かベルリンを拠点に活動していて、ロンドンでも頻繁にライブを行っていた。僕のまわりには何故かニック・ケイブのファンが多くいたこともあって(大抵は女性だった。)僕もよくライブに足を運んだが、ラモーンズやジョニーサンダースなどのわかりやすいパンクロックを欲していた僕には、当時のケイブの退廃的なムードのステージは難解で、ライブそのものは正直少し退屈だった。
おそらくドラッグ漬けだったのだろう、登場して2曲めぐらいからは自力で立てず、ストールに腰掛けて下を向き、つぶやくように歌っていたのが印象的だった。ステージのためにドラッグを用いるミュージシャンは少なくないが、基本はハイになるのが目的で、ドロンドロンになって地面の下に落ち続けるようなパフォーマンスをステージで披露するアーティストは彼の他にはいなかった。ドラッグについてはやはりその通りだったようで、映画の中では「その頃(80年代)の記憶が全くない。」と口ずさむシーンもあった。こっちはよく憶えてるんだけど。
ライブを退屈と感じるくらいだから、レコードまで手が出ることもなく、まともに曲を聴く機会もなく、その後、積極的に音楽を聴くことをやめてしまったこともあって、ニック・ケイブの存在は僕の中で次第に薄れていった。
今から10年くらい前のこと。良い歌を歌うミュージシャンと知り合って、音楽のルーツなんかについて話をしていたら、頭からつま先までどっぷりニック・ケイブなのだと言う。ニック・ケイブね、ふむ。どれどれ、久しぶりに聴いてみてやろうと手に入れたのが Into My Armsが入ったアルバムで、最初に聴いた瞬間から頭から離れなくなり、以来、僕のヘヴィーローテーションとして常に傍にある存在になった。おそらく墓場まで持っていくことになろう。この曲は店のBGMでもパーティーのDJでもことあるごとにしつこく流しているから僕の友達ならいちどならずとも聴いたことがあるかと思う。
こんなキャッチームードの曲をやってたっけ?と思って調べてみたら、96年の録音とあるから、「暗黒の80年代」を抜け出した後の作品であるらしい。
Into My Arms をきっかけに他の曲も聴くようになって、レコードも何枚か手に入れた。ニック・ケイブのレコードは中古屋でもなかなか見かけることがなく、あっても恐ろしいプライスが付いていて手が出せないものがほとんどだ。どうしてもレコードで欲しかった Into My Arms はインターネットで探して、ベルリンのレコード屋から取り寄せた。
本人が「記憶していない」と言う80年代のBIRTHDAY PARTYの45回転も持っていて、先ほど久しぶりに針を落としてみたのだけれど、やっぱりあまり良くない。( 笑:ファンの人ごめんなさい。)映画で聴いた今の曲の方が全然良い。と言うか、大好きな Into My Arms の時代から更に進化している。断然今の方がかっこいい。これってなかなか凄いことだと思う。かのローリングストーンズだって現在進行形で活動していて、ジジイならではのかっこよさは醸しているけれど、今のストーンズと65年のストーンズと並べてどっちがかっこいいかって言ったらやっぱり後者の方がいいに決まっている。
詩の方は相変わらず難解だ。ひとつの歌の中で場面がどんどん変化していく。 脈絡のない夢のように。何を言おうとしているのか。何を伝えようとしているのか。
頭に浮かび上がったものごとをいかに正確に人に伝えるべきかと考えて僕は文章を書く。書いては迷い、言葉を選んでは捨て、画面を見つめて呆然として、書き出してはまた迷う。誰かに何かを正確に伝えられたことなんて一度もない。
日本語に翻訳されたニック・ケイブの言葉を字幕で読みながら、ふと、彼には、人々に何かを伝えるつもりなんて最初からないのではないかと想像する。
そういうやり方があるんだな。と僕は思う。言葉は何かを伝えるためだけにあるんじゃない。言葉は時としてただの言葉だ。
ニック・ケイブの詩は彼自身であるようにも思える。現実と夢の間を彷徨い、人と神の間を行き来する。人よりも神に近いところまで出かけて行って神の言葉を拾い集めて詩にする。
やれやれ、何だか自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
ニック・ケイブのファン以外の人がこの映画を観て、楽しめるかどうかは微妙なところだ。年に3回以上もミニシアターに足を運ぶような人なら、きっと楽しめるんじゃないかと思う。たぶんだけど、ブコウスキーとかケルアックとかの詩や小説を読む人は大丈夫な気がする。映像や音はアーティスティックでクオリティーもとても良いから現代美術のビデオインスタレーションなんかが好きな人にもおすすめかも知れない。ただ、これはやはり劇場で観るべきだと思う。仮にDVDが出たとして、家で観たらファン以外の人はたぶんみんな寝る。
それからポスターにも写ってるけど、チョイ役で歌手のカイリー・ミノーグさんが出てくる。いい感じに年をとったミノーグさんががとても良くて、彼女がセリフを喋る時だけは字幕を見る余裕が全くなかった。
日本で人気のあったアインシュトゥルツェンデ・ノイバウテンのブリクサさんも出演していた。例によって悲しいほどの劣化ぶりだったが、目の濁った輝きだけは以前のままだった。当時、ブリクサさんにタバコをもらったことがあって、これがけっこう人生の中での僕の代表的な自慢話になっている。しょっちゅう言うので、ああまたかと思っても、初めて聞いたような顔をしていただけるとありがたい。