無題

金曜の午後4時。近所のカフェにいる。コーヒーのおかわりを注文してふと店内を見回すと、客は僕の他にひとりもいなかった。40人くらいを収容できそうな広い店を貸し切り状態で独り占めできるのは気分がいい。天井から無難なモダンジャズが無難な音量で流れている。コックが何かをみじん切りにする包丁の音が聞こえる。エンジンに付いたコールタールをアイスピックで突ついて落とそうとしてるみたいな不器用なリズムだ。遠くの方で女が咳払いをした。人が痰を吐くのを目の前で見てしまったみたいな気分にさせるナスティな音だ。そう言えばエントランスで出迎えてくれた女の子の姿が見えない。彼女の咳だろうか。女の子はまるで白馬の王子に出会ったかのような笑顔で僕を席までエスコートしてくれたのだ。あのラブリーなたたずまいから、地獄の門番の唸り声みたいな音が発せられるとはとても思えなかったし思いたくもなかった。石油ストーブで温められた空気をエアコンが運んできた。窓の外、冬色に晴れた空に月のリングが薄く浮かんでいる。

突如、店全体がブルブルと振動しだした。地震の揺れ方ではない。建物が地面から離脱して空に飛び立とうとしているような感覚だった。従業員らが取り乱して騒ぎ出すようなこともなかった。ははーん。これはあれだな、昼が終わって夜が来るのだ。と、僕は思った。建物ごと昼から夜へ移動するのだ。夜はここではない場所にあるのだと。

ビリーホリデーが夜の歌を歌い出した。

僕はメニューを吟味して、ペールエールを注文した。さっきの彼女とは別の給仕の女の子がオーダーをとってくれた。

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