サンマの刺身

要件を済ませ、行きはモノレールを使ったルートを歩いて千葉駅まで戻ることにした。胃がチクチクするような気がしたが、おそらくは腹筋運動の筋肉痛だろう。秋は空でどんよりと曇り、虚ろな湿り気が皮膚にべっとりとまとわりついていた。

昼食の時間はとっくにすぎていたが暗くなる前に何か腹に入れておきたかった。のれんが出ている寿司屋を見つけて入店。カウンター10席程度、テーブル2卓。恰幅のよい主人と華奢でいかにも働き者そうな女将。夫婦で店をきりもりしているようだ。好みのサイズだ。カウンターの中央に80くらいの男性客。テーブル席に3人の若い女たち。カウンター奥にも人影があったが僕の目は詳細を認識しなかった。客席を占領している発泡スチロールの箱を女将が細い腕で持ち上げようとしたが、それは無理だよ。と、主人が出てきて軽々と箱を持ち上げて移動し、僕の座るスペースを作ってくれた。

すみませんね。たった今築地から届いたばかりなんですよ。

築地市場の魚を千葉で食べるのも妙なもんだが、まあ、それほど気になったわけではない。店内外の雰囲気からここが美味しい魚を食べさせる店であることはすでに確信していた。

サンマの刺身400円とあった。それとランチ握りを注文。飲み物はお茶でお願いします。あ、温かい方で。今日の仕事は終了していたが、何故かビールを飲む気分ではなかった。

この秋初のサンマだった。サンマそのものも新鮮で素晴らしかったが、ワイルドな包丁の入れ方が好みだった。必要最小限のタッチ数で捌かれた肉厚でギロリと脂の乗った肉片。口に含むと舌の上でしばしまどろみ、とけて喉の奥に堕ちていく。しっかりサンマの味がする。骨の痕跡が口内をチクリと刺激し、罪悪的な香りが静かに鼻腔を通過した。

握り寿司も悪くなかった。いちばん印象が残ったのは野蛮に巻かれた鉄火巻だった。お椀が出てこないのは忘れられているのか、温めるのに時間がかかっているのか。寿司をすべて平らげた後に遅れてお椀が到着した。かっぱ巻きを追加注文。味噌汁、特に太くしっかりしたワカメが素晴らしかった。子どもの頃によく食べていた鳴門産のワカメのことを思い出した。

醤油をつけたかっぱを口に入れてもぐもぐやっていると、左の視界の中で空気が動いた。邪悪さはない。僕は僕と世界の境界線に張られているバリアを解放した。鼻呼吸に同調するリズムの小さな笑い声に続いて老人が発声する

Where are you from?

ネイティブではない。でも良い発音の英語だ。僕は英語で答えるべきか少し考えて、東京です。と日本語で答える。

老人が次のセリフを英語で考えているのがわかる。

よく外国人と間違われるんですよ。こう見えても日本人なんです。

そうですか。鼻が高いからてっきり外国の方かと。

老人の脳が日本語対応にリセットされる。がっかりした風ではなかったから、特に英語が喋りたかったわけではないようだ。老人の手元には冷酒が入ったグラスがふたつ。ひとつを飲み終わる前におかわりを注文したのだろうか。温厚そうなたたずまいでありながら、どこかインテリっぽくもある。元教師か、もしかしたら学者か。小柄で少し背中が猫背気味だが、肌の血色もよく健康そうだった。ヒゲは綺麗に剃られ、地味だけれどしゃんとしたシャツを着て、立てかけられた杖にはチョコレート色の丸いハットがかかっていた。

千葉の方ですか?

いえ、東京から来ました。

と、僕はふたたび答えた。

僕たちはお互いの個人情報を交換しあった。老人は82歳で、僕の父親と同じ年の生まれだった。彼の奥さんは辰年だそうだから、僕の母親と同い年ということになる。

僕は巳年なもんで、よく辰が蛇を産んだんだって言われます。

ははは。辰が蛇をね。

と老人が愛想笑いをした。

若いですね。私よりも年上じゃないですか。

とカウンターの中から主人が話に割って入ってきた。僕は改めて主人の風貌をしっかりと確認する。確かに主人は僕よりも年上であるように見えた。いやいや、老けてるってわけではなく、貫禄があるという意味で。僕はどうもこの貫禄というやつに欠けるようで、上から目線の対応を受けるのはめずらしいことではない。お店の店員はもとより例えばビルのガードマンとか、駐車場の誘導員とか、みな無知な小学生を相手にしているみたいに親切に接してくれる。もしかしたらこの老人のように、みな単に僕を外国人だと思っているのかも知れない。

アフリカには仕事で30回ぐらい行きました。

と老人が言った。

ア、アフリカですか?

ニューヨークが多かったかなあ。

どうやらアフリカではなく、アメリカであるらしい。僕はちょっと安心する。アフリカに30回も訪れた老人と寿司屋のカウンターで肩を並べるというのはただごとではない。ストーリーとして飛躍しすぎだ。

今は、娘がドイツに住んでいるのでね。海外と言えばもっぱらヨーロッパです。

どうやらこの老人とは共有できる話題がたくさんありそうだ。老人は訪れた土地のことを話し、他界した友人を惜しむ話をし、奥さんが作る料理の話をし、時おり人生哲学的な話を織り込んでは、また身の上話をした。「浅草ロック座」という単語が4回か5回ぐらい登場した。いい思い出があるのだろう。途中、話題が戦争に触れそうなことが何度かあった。その度に老人は我に返ったように話すのをやめて、冷や酒をひとくち舐め、しばし遠いところを眺めて黙り込んだかと思うと、思い出したようにまた別の話を始めた。

老人と同い年の僕の父は昭和9年の生まれだから、終戦時12歳。戦争の記憶がないわけはないが、思えば父から戦争の話を聞いたことはほとんどなかった。ほとんどと言うか、皆無だった。僕の母は、父世代の人たちはみんな怒っているのだと言う。一生怒り続けているのだと。何を怒っているのだろう。僕は知らない。母も知らない。おそらく父だって自分が何に怒っているか知らなかったんじゃなかろうか。でもその静かな怒りは少なからず僕にも影響を与えていると感じる。そう、僕はいつも怒りと共に生きている。

教員になるための資格を取ろうとしていましてね。

と老人が学生時代の思い出話を始めた。

いや、結局教師にはならなかったんですけどね。教員免許だけは取りました。免許を取るための教育実習がありましてね。実際に生徒たちを相手に授業をするわけです。あれは小学校だったかなあ。中学校だったかも知れない。全校生徒に向かって演説をしなきゃいけないってのがありました。題材はね。何でもいいんですよ。自分が伝えたいと思うことを喋るんです。大勢の生徒の前でね。ずいぶん考えましたね。散々考えて、僕はこう言ったんです。「強気で行け。」そう、強気で行けとね。

強気、ですか?

そう。いやいや、結局教員にはならなかったんですよ。でも免許だけは取った。そして生徒たちに「強気で行け。」と、強気とね。

僕は体の角度を変え、無言で老人の顔を眺めた。老人はカメラで写真を撮られる時にポーズを取るみたいに静止し、視線を僕の眉間にロックした。顔は微笑んでいたが、眼鏡の奥の細い目が発する眼光はパワフルで真剣そのものだった。一瞬すべての音と温度が消え、視界が狭まっていくような気がした。

強気ですね。わかりました。強気で行きます。

しばらくの沈黙を破って僕の口が言葉を発した。止まった時計の針が動き始め、緊張感のもやが姿を消し、後ろの席の女たちのおしゃべり声がフェードインしてきた。温度が夏を取り戻し、長袖のシャツがまとわりつくのを腕がうざがっていた。口の中が乾いていた。また腹がチクチクと痛み始めた。

そうです。強気です。

と老人はくり返した。

強気と言っても、ただ強ければいいというわけじゃない。

と老人は続ける。

でもその辺のことはあなたはよくわかってるはずだ。そうでしょ?

と老人は今度は口を開かずにダイレクトに僕の頭に語りかけた。

はいわかります。

と僕は頭の中で返事した。

そろそろ退散する時間だった。老人はもっと話をしたそうだった。この後、特別な用事が待っているわけではなかったが、日頃から長居は無用、去り際が肝心と決めている。それに、ここから先はこれまでのやりとりが何度もくり返されるだけのような気がしていた。僕は自分の名前を告げて老人の名前も聞き、お礼を言って勘定を払い引き戸を開けて通りに出た。老人は少し残念そうな面持ちだったが、無理に引き止めようとするほどでもなかった。

お話しできてたいへん光栄でした。またお会いできますことを。いつまでもお元気で。強気で行きます。ありがとうございました。

最後にsee you again!とでも言っとけばよかったかな。よいセリフはいつも後になってから思いつく。

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