休止

文章が書けなくなって久しい。このブログも放置状態が長く続いていて、有料プランの料金を支払い続けるのが馬鹿馬鹿しいのでプランを解約。すると無料で使える容量をすでにオーバーしているらしく、これ以上の更新ができなくなるとのメッセージが出た。これにて万事休すか。

いずれまた言葉に溢れ、ブログを再開したいと思う時が来るかも知れない。その時のために解約はせず、これまで書いた記事もこのままここに残しておこうと思う。断捨離(この言葉はあまり好きではないが)ムードになって突然削除することになるかも知れない。いずれにしても、このタイミングでマックロマンスEXPRESSを正式に休止することにした。

どんな方が僕の文章を読んでくれていたのか、ほとんど知らない。あなたはきっとコーヒーが好きだと思う。映画をよく見る人だと思う。読書も好きだけど、最近ちょっと本を読む機会が減っているかも知れない。いや、逆に昔は読めなかったロシアの作家の作品なんかをバリバリ読破しているかも知れない。

ああ、これ以上ことばが出てこない。

BLUESNIK “PARADISE LOST” ミュージックレビュー

四国に住んでいた10代の頃、ロンドンから届く服を見に、フェリーに4時間乗って、大阪のアメリカ村にあったパンク系の服屋に、通うという程でもないが、何度か訪れた。「見に」と言ったのは、取り扱っていた商品が高価で、とても買える代物ではなかったからである。安全ピンや女物の古着を駆使して作ったDIYパンク衣装に身を包み、船酔いと格闘し、偽物の大阪弁でやりとりしながらお目当ての服屋を目指す。店は雑居マンションの確か2階にあって、大音量で音楽が流れているのが遠くから聞こえてくる。店に近づくにつれてアドレナリンがカラダを駆け巡り、鼓動がリズムとリンクする。無造作に開け放たれた鉄のドアの前で興奮が最高潮に達する。まるで聞いたことのない音楽。

ハンザワさんの最近のDJ MIXは僕にその時のことを思い起こさせる。

無邪気なパンク少年に、店主が服のうんちくを授ける。キングスロードとか、ワールズエンドとか、シドチェーンとか、、聞くだけで鼻血が出そうなカッコいいワードがパンク少年のハートをメタメタに突き刺す。

服屋で流れていた音楽はパンクではなかったと思う。もっと難解で、ドロドロして、居心地の悪い音だった。今のハンザワさんが「その辺」を突いている。彼のMIXを聴いて、17歳の自分にタイムスリップする。夢なんかなかった。ただ壊したかった。何を?世界を、自分を。

ハンザワさんの最新DJ MIXはミックスクラウド

WALKING IN L.A.

だんだん「コロナ」というワードを耳にする回数が減ってきたかな。でも、もうコロナ以前の平和な?日々はもう二度と帰ってこないという感覚はありますね。そうでなくても、世の中は物凄いスピードで変化していると感じるし、時は前に進むもので、誰にも止めることはできません。日々更新される新しい世界が少々居心地の悪いものであったとしても、それに対応して生きていくしかないんだよね。

きのう蕎麦屋に入ったんですけど、スマホを使ってオーダーするシステムで、うまく商品を検索することができなくて、とりあえず目に入った盛り蕎麦を注文しました。本当はもう少しにぎやかな食事にしたかったんだけど。今後、僕が死ぬまでにどのぐらい蕎麦屋で食事をするかはわからないけれど、「小さな蕎麦のついた天丼セット」とか、「肉を抜いた南蛮カレー蕎麦」みたいなものをランチに食べたいと思うなら、ある程度スマホを使いこなせるようにならなくてはいけない。あきらめて、「蕎麦屋では盛り蕎麦しか食べない。」というのもひとつの選択ではあるでしょう。スマホに翻弄される無駄な時間を全てクリエーションに注げば、もう少しマシなものが作れるようになるかも知れません。

数日前、久しぶりにエスケン師匠と会ってお茶しました。師匠もニューアルバムを発表したばかりで、相変わらず多忙でクレイジーな日々を過ごしてらっしゃる様子。スマホやタブレットなどのツールもフルに使いこなしているようで、僕のインスタの投稿なんかも、けっこうチェックしてくれているそうです。特に動画制作についてたくさんお褒めの言葉をいただいて光栄。

しかしだな。日本を代表するオルタナティブミュージックのプロデューサーが、映像と音楽で構成された作品を観てくれて、音楽の方には全く興味を示さないという事実。音楽を作っている者としては屈辱ではあります。エスケンさんは芸術に対して100%ピュアな人間で、いいものはいい、興味のないものは、どんなに高明な人間の作品であっても興味がないというスタンスで生きてらっしゃる方なので、まあ僕の音楽が師匠のセンサーに引っかからないのは、それまでの作品でしかないと言うことで仕方がない。

エスケンさんのところには今でも毎日何百という数のデモ曲が送られてくるそうです。師匠はそのほとんど全部を「聴かない」と言っていました。その膨大な曲の中にはきっと、ヒットソングの卵となりえる名曲も含まれているはずです。それらを差し終えて、いわば「飛び級」で自分の曲を聴いてもらえる立場にいるにもかかわらず、師匠の鋭いの耳のセンサーをかすることもできず、何と言えばよいか、申し訳ない気持ちも。できれば才能があるのに人に知られていない金の卵に自分の特等席を譲ってあげたいぐらいだ。

でもまあね。凄い奴はやっぱり凄くて、結局どこかから芽を出して来るもんなんだよね。「埋もれた才能」なんてのはゴッホの時代の話、売れるには理由があるし、売れないのにも理由がある。それが現代だと僕は思います。

僕のインスタなどをフォローしてくれている方は知っていると思いますが、最近、ロサンゼルスのロックフェスティバルに出演することができまして、まあ相変わらず世間的には何の話題にもなっていないのですけれど、自分としてはまあなかなか大層な出来事ではありました。ライブの映像などもオンラインに出回っておりますが、個人で撮影(苦手なスマホを使って)した動画や写真に音楽をつけたショートムービーをYouTubeにアップしてあります。エスケンさんが絶賛してくれたわりには、再生は全く伸びず、現在30アクセスぐらいかな。(以前、友人に、どうやったらそんなに低い再生回数のYouTube動画を作ることができるのか?とマジ顔で訊かれたことがあります。)ぜひご覧になってみて下さい。

近況

久しぶりの更新だね。あれだけ書くことが好きだったのに、ものが書けなくなってしまってから随分と時間が経ちました。10年ぐらい前からSNSが本格的に浸透してきて、僕はそれが書けない原因なのではないかと思っていたのだけど、うん、メカニズムはよくわからないんだけどね。SNSウィルスみたいのに脳が侵されたような感じだと自分では思っていた。

きのう、友達とチャットしていて、書けないんだよね。という話をしたら、今のマックは神経が聴覚の方に行ってるからね。と返されて、すとんと落ちました。なるほどね。確かに僕がDJを始めてからもう10年近くになるんだわ。

世の中には複数のものごとを高いレベルで処理する能力を持つ人がたくさんいるけれど、どうやら僕はそうではないみたいです。一極集中型とでも言えばいいのでしょうか。ひとつのことに集中すると他はダメということらしい。(その代わり集中力は人並外れて高い。と友人は言ってました。)

書けなくなったのは音楽に集中しているからだ。真実はどうあれ、そう思うことにしました。本当に書きたくなったら、音楽をやめればいいわけだ。そうね、今は曲を作ったり、それをSNSに上げたりすることを、とても楽しんでやっているし、そのパッションもしばらくは持続しそうなので、僕がまたバリバリとものを書けるようになるのは、ちょっと後のことになりそうです。

音楽に集中しているから、その成果が出ているかと言えば、そんなことは全然なく、一生懸命作った曲をオンラインで発信しても、人々の関心はほとんどゼロに近いのが実情。感覚で言えば、文章で発信するよりも、反応は薄いような気がします。でもまあ、この惨状にもかかわらず、曲作りのモチベーションが下がらないというのは重要なポイントであるとは思います。

そんな音楽人=マックロマンスの音楽活動の中で、わりと完成度が高いのが、以前にも紹介したことのある「ザ東京カウボーイズ」。この業界ではまず「ジャンル」を設定することが必要不可欠なので、「エレクトロ・ガレージ・ロック」という分類に属することに決めました。昨年の春ぐらい前から曲作り、レコーディングを開始し、夏にはフルアルバムが完成。ベルリンの老舗ロック系インディペンデントレーベルとの契約に漕ぎ着き、クリスマス頃にはまずはヨーロッパでアルバムをリリースすることになりました。

しかし、契約書にサインをする段階で、こちらにとって不利な条項がいくつかあるのが判明、代理人を立てて協議をしているうちに連絡が途切れはじめ、どうも先方の担当者が深刻な病気を抱えているとの情報もあったりして、結局そのまま音信不通状態に。しばらくは連絡を待っていたけれど、うやむやな状態で放置しておくのは気持ち悪いので、先月、正式に契約破棄を代理人に伝えました。

結果はどうあれ、海外のそこそこ実力のあるレーベルが興味を持ってくれたことは事実なので、まあまたレーベル探しから気長にやっていこうと思っています。

写真の僕が着ているのはザ東京カウボーイズのオリジナルTシャツ。デビューもしていないバンドのTシャツを作ったり売ったりできるような時代になるとはね。欲しいロックTを求めてなけなしの小遣い握りしめて往復8時間のフェリーに乗ってた少年時代には想像もできなかった。グッズ販売だけじゃなくって、インスタやったりウェブサイト作ったり、水面下?でいろいろと活動しています。応援宜しく。

渋谷パルコでネクタイを買う

ウイルス騒動で自宅にいる時間が長くなり、妻に任せっぱなしにしていた家事を多少分担することになった。いちおう食器などの洗い物と洗濯物のたたみ、それからゴミ出しは僕の役割ということになっている。

長く飲食業に従事していたこともあるので、洗い物は(何をやっても半人前の僕にしては珍しく)得意分野のものごとであると言ってもよいかも知れない。特に皿や茶碗など、形状がシンプルな食器を洗浄するのは成果が目に見えて気持ちが良い。逆に苦手なのはタッパーウェア。こびりついた油がなかなか取れずにイライラする。あとカトラリー類。あれは嫌だね。

時は1989年、僕は5年近くに及ぶ海外でのミュージシャン生活に区切りをつけ帰国、東京で新生活を始めようとしていた。当時のイギリスの暗く重い雰囲気の中で暗く重い音楽を演奏しながら生きていた僕の目には、ちょうどバブル期だった東京は煌びやかな魔法の世界のように見えた。最新のファッションに身を包んで街を往来する人々は勝ち誇った笑顔に満ち溢れ、男性も女性も誰もがとても魅力的だった。カラーテレビの中で自分だけが白黒でいるような疎外感はあったけれど、ロンドンの田舎から「上京」してきた僕にとって東京の人は憧れの存在だった。カフェに入ってコーヒーを注文するといった日常的なやりとりでさえ、芸能人と会話を交わしているような夢見心地な気分になったもんだ。

当時、渋谷パルコの確か地下だったと思うが、おしゃれな和製の食器や雑貨を取り扱っていたショップがあった。ちょうど新生活のための日用品を買い集めていた時期だったので、それとなく商品を物色していたところ、いい感じの箸が陳列されているのに目がいった。シンプルなシルエットの丸箸だったが、ざらざらとした手触りのカラーコーティングが施されていていかにもトーキョースタイル。カラーも淡い紫色など普通の和箸にはないムードで気に入り、すぐに購入を決めた。

おそるおそる商品をレジに持っていく。僕にとってはコーヒーショップの店員でさえ芸能人である。パルコの店員ともなれば、もはやスーパーモデルとかハリウッドスターレベルの超セレブだ。会計をするだけでもハートがドキドキする。店員はパルコの人間としてはかなり庶民派であるように見受けられた。愛想も良さそうだしお高くとまっている感じもない。僕の頭の中に「このセレブと会話を交わしてみたい」という欲求が渦巻いて来た。いちどそうなったら止めることはできない。

あ、あのう。この箸は何か特殊なコーティングがしてあるんですかね?

言ってみた。

そうですね。

素っ気のない返事だったが、悪い印象はない。少なくとも僕がロンドンから出て来た田舎者だということはバレてないように感じた。

あの、これってゴシゴシ洗ったりしたらコーティングが落ちたりしませんかね?

え?でも、お箸をそこまでゴシゴシ洗ったりしないですよね?

撃沈である。そうだ。彼女は正しい。東京の人間が、芸能人が、セレブが、箸をゴシゴシ洗うわけがない。そんなことをするのは田舎者だけだ。だいたい何なんだその意味のない質問は?コーティングが落ちたりしませんかね?だと?アホだ。アホだ、アホの質問だ。駄目だ。わかっていたのだ。彼女は最初から僕が田舎者であることを最初からわかっていたに違いない。恥ずかしい。違うんです。僕はただ店員さんとセリフを交わしてみたかっただけなんです。コーティングのことなんかどうでもよかったんです。すみません。田舎者が東京のセレブと会話をしてみたいと思ったりして身分不相応でした。

僕は顔を真っ赤にして半泣きになりながら支払いをして逃げるようにパルコを後にしたのである。あまりの恥ずかしさに東京で生活するのをやめてしまおうかと思うぐらいだったが、幸い反省の気持ちが持続しない性格である。やがて都会の生活にも慣れ、パルコで買い物をするのに怖気付くこともない図太い東京人へと成長した。後にパルコで働いている女性スタッフと友人を介して知り合って、少しいい感じになったこともある。結局付き合うところまでは漕ぎ着けなかったが、箸を買うだけでビビっていた時からすると随分な成長だったと言えよう。ただ、その「箸のやりとり」については自分の中で相当なトラウマになっているようで、今でも台所で箸を洗うためにその時のエピソードが脳裏に蘇る。箸はゴシゴシ洗わない。箸はゴシゴシ洗わない。箸はゴシゴシ洗わない。

その後パルコは解体されて、今年リニューアルオープンした。先日別件で渋谷に用があった際に、地下の駐車場を利用した。機械式の最新システムの駐車場に生まれ変わっていたが、細部に何となく以前の面影も残っていて、ああパルコはパルコなんだなあなんて、少々ノスタルジックな気分にも。用を済ませて車を出す前に店内を少し物色して歩いた。特に気になる店があるわけではないが、パーキングチケットの割引を受けるために何か気に入ったものがあれば購入しても良いと思った。ところがだ。

ところが、店内を上から下までざっと見て回ったが、欲しいものが全く見当たらないのである。もちろん大枚を叩いても良ければ手に入れたい高価なものはあるが、たかが駐車場の割引を受けるためにわざわざ清水の舞台から飛び降りることもない。

最近、欲しいものが売ってなかったり、行きたい店が閉店したりというようなことが多々あるが、それは商品や店の方に問題があるわけではなく、要するに社会の中における自分の存在(価値)がどんどん小さくなっているということの表れだと僕は考えている。生まれた時からずっと消しゴム擦り続けてるような人生だったが、いよいよ最後のひとつまみぐらいの大きさというところまでやってきた感はある。

店内にいたらどんどん駐車料金が加算されていく。このまま手ぶらで帰ろうかと思い、帰りのエレベーターに向かおうとしたらトムブラウンのショップがあるのを発見。ジャケット一着で車が買えるぐらいの狂った値段設定のブランドだが、小物やアクセサリー類は意外と手に入れやすかったりもする。特にネクタイはだいたい2万円台が主流で、それを身につけた際の高揚感からするとむしろ安いような気すらする。

で、買ったネクタイの入ったショッピングバッグを片手に意気揚々と駐車場に向かったわけである。そしたら何と、割引される駐車料金は2時間分オンリー。車は3時間以上停めたので、その分の駐車料金を支払って帰宅した。3時間分の割引を受けるためにはいくら買い物すれば良いのだろう?ま、パルコの駐車場に車を停めることは2度とないので、知ったところでもはや意味はないか。

何年たっても結局渋谷パルコは僕を受け入れてはくれなかった。きっと僕は消しゴムの擦りカスとしてロンドンの暗く重い空の下で暮らすべきなのだろう。東京の太陽は僕には明るすぎる。

また走り出した

ウイルス騒動の外出自粛期間にぶくぶく太り、久しぶりにダイエットを始めた。食べ物をコントロールするだけではなかなか痩せず、運動もした方がよかろうと、少し近所を走ってみた。ナイキのランニング用アプリの履歴を見ると、最後の記録が2017年だったから、実に3年ぶりのランニングということになる。

僕がいちばん最初に走ったのは小学生の頃で、喘息にランニングが良いらしいという情報を仕入れてきた両親に言われるがままに、毎日学校に行く前に近所をジョギングをするのが日課だった。毎朝同じ2kmぐらいのルートを自転車に乗った父親のサポート付きで走るのだが、それを恥ずかしいこととも思わず普通に受け入れていた。子供の頃の僕は親には一切反抗せず何でも言うことを聞く「良い子」だった。

走ることそのものも嫌いではなかったのだろう、苦しかったり嫌だったりした記憶はない。走っているうちに気分が高揚してきて、道で出会う人に「おはようございます!」なんて声をかけたりして、引っ込み思案で暗い少年だった僕とは思えないような行動。走ると脳内モルヒネが出るというような話を聞いたことがあるが、子供の脳はそれにダイレクトに反応するのかも知れない。

中学生になってもっと内に篭るようになり、両親や家族とも口を聞かないような状態(今から思えばあれが僕の反抗期だったのだろう。)になって、その父親のサポート付きランニングはそのままフェードアウトしてしまった。

中学2年生の時にクラス対抗の陸上大会があった。僕は運動は何をやってもからっきしダメで、特に短距離走は苦手。運動会の徒競走は9年間ビリだった。クラスの生徒がそれぞれ参加する種目を与えられていく中で、最後に残ったのが僕と長距離走だった。誰も長距離を走りたがらなかったし、「運動神経ゼロ」の僕には種目を選ぶ権利がなかった。

3000メートル走は400メートルのトラックを7周半する。僕が7周半走ってゴールしようとしたら、ちょうどゴールの前に担任の先生がいて「ホンダ(僕の本名だ。)はもう1周だ。」と言う。僕の前には3人の選手がいて、そのままゴールしていたら学年で4位ということになる。「運動神経ゼロのホンダ」がそんなに走れるわけがない。と担任は思ったのだろう。

こともあろうに僕の考えも担任と同じだった。自分がそんなに早いはずはないと思い、素直にもう1周走って(走る気力を完全に失って歩いている生徒を抜きながら)ビリに近い順位でゴールした。

僕が次に走り出したのは29歳の時だった。30を迎える記念として、自分がこれまで経験のない新しいものごとに挑戦してやろうと思い、トライアスロンの大会に出場したのだ。幸い、僕は小学校の時にスイミングスクールに通っていた(水泳が喘息に良いと両親が聞いてきたのだ。)ことがあるから、水泳はできる。知り合いを通じて中古で自転車を買い、駒沢公園のランニングコースを毎日のように走って練習した。

出場したレースは短い距離の初心者向けだったが、生涯で運動をした経験が全くない僕にとっては未知の世界だった。ビリでもゴールできれば良かったし、最悪ゴールまで辿りつかずとも出場するだけで意味があると思っていた。しかし結果は自分が想像していたよりも良く、僕の順位は出場選手の中で半分よりもずっと上だった。

8周半走ったな。僕は中学の時の陸上大会の3000メートル走で、ひとりだけ8周半走ったと思う。

トライアスロンは僕のライフスタイルを根本から変えてしまった。それは全く新しい生き方だった。その後、僕はフットサル、キックボクシング 、今ではサーフィンと、アクティブに体を動かすことがライフワークの中で重要なポジションにあり、常に「カラダ」が「アタマ」よりも上位にある生き方をしているが、そのスタートは29歳にトライアスロンに挑戦した地点だったと思う。

毎年開催されるトライアスロンのレースに狂ったようにエントリーして「運動神経ゼロのホンダ」のことが嘘であったかのような良い成績も残したが、あるタイミングでバーンアウトがやってきた。

バーンアウトの明確な理由はよくわからないが、ひとつは「記録」が原因なのではないかと想像する。レースに出て自己タイムを縮めることばかりに集中するあまりに、走ったり泳いだりの本来の楽しさを忘れてしまうんだ。

現在はランニングアプリがあって、レースに出なくても自分のランニングデータを記録することができる。希望すれば人と情報を共有して戦うこともできる。むろんそれはそれで走るためのモチベーションにはなるが、どうだろう?僕はまた走り出したが、今のところ距離や時間は計測していない。何も持たずに家を出てルートも決めずに走りたいだけ走る。疲れて走るのが嫌になったら歩けば良い。

何をやるのもまずは格好から。というわけで新しくキャップを購入した。ボサボサに伸び放題の髪の毛をまとめる用途のつもりだったが、たまたま最初に被って走った日が雨で、非常に使い勝手が良いことを知った。ゴアテックス素材だから水は弾くし、頭の中が蒸れずに快適だ。かなり大降りの雨の中のランだったのだけど、顔への滴はほぼ完璧にシャットされて快適だった。防寒効果もありそうだし、これから冬に向けて重宝しそう。オンリーブラックの清いデザインもグッド。別にノースフェイスからお金をもらってるわけじゃないからね。

車と皿

車に乗る機会が増えた。こういうのはクセみたいなもんで、前なら自転車で行っていたような近場まで、わざわざ車を出す始末。毎日仕事もせずに家にいて暇そうに見えるらしく、家族を送迎する回数も以前よりもずっと増えた。

都会を車を利用して良いことは雨にぬれないことぐらいで、それ以外は煩しいことのオンパレードである。信号は多く、道はどこも渋滞している。マナーの悪いドライバーの粗暴な運転、意味不明なクラクション、すり抜け自転車の幅寄せ、、。例をあげればキリがない。

駐車場はどこも満杯でやっとの思いで駐車したら、今度は信じられないような高額の料金である。

デパートなどの施設に車を停めた際、駐車料金をまともに支払うか、施設で買い物をして割引を受けるか、どちらがよいかは議論が分かれるところだと思う。モノが増えることを好ましくないとするトレンドにおいては、潔く高額な料金を支払った方が健全なライフスタイルを築けるような気もする。僕のような貧乏性の人間は、同じ金をを払うならモノが残った方がよいと考えてしまう。最も前者においては車を所有すること、あるいは車を利用することそのものをクールなこととは捉えないだろうから、そもそもこの二択は議論の種にならないかも知れない。

娘を渋谷まで送迎して、1時間ほど待機することになった。あてもなく駅周辺をぐるぐる回っていると、ヒカリエの駐車場入り口を見つけた。東横線沿線に住む者としてヒカリエはこれまでに何度も利用したことがあるが、駐車場が備わっていることは初めて知った。考えてみればあって当たり前なのだけど、これまで車でヒカリエに行く用事が一度もなかったのだ。

僕は渋谷の地下に新しく秘密の入り口を見つけたみたいな気持ちになって少し高揚した。行ってみるとわかるけれど、ヒカリエの駐車場の入り口は建物の表からは全く見えず、見つけるのに少し苦労する場所にあって、そういうのは萌える。今となっては珍しくもなくなった機械式のパーキングシステムもいい。自分がSF映画の中に入ったような気分になる。ここまで話して気がついたが、おそらく僕は地下駐車場が好きなのだと思う。

地下駐車場は好きなのはけっこうなことだが、高い駐車料金はいただけない。1時間の駐車料金は800円とある。都心、しかも渋谷のど真ん中としては良心的な金額設定だと思う。それでも高い。1時間分の料金をチャラにするためには3000円以上の買い物をしなくてはならないとある。今買わなくても、近々確実に買わなくてはならないモノ、例えば米や醤油を買えば駐車料を実質ゼロ化できる。幸いヒカリエには食品売り場があって米も醤油も売っている。

しかし、僕の目は食べ物ではないものに引き寄せられた。見ての通り、青が美しい和物の皿である。適度な厚さともっちりとした手触りが何とも心地よく、手に持ったら離せなくなった。ブランドは愛媛の砥部で、実は湯呑みや茶碗など、いくつかのアイテムを持っている。基本的に何でも西洋のモノが好き(というより和物が嫌い)な自分としては、かなり珍しいセレクションである。

手提げ袋を「いらない」と言って、シールで済ませた。マイバッグを用意していなかった(買い物をするつもりはなかった。)ので、娘を待つまでの間、買った皿を生のまま手に持って、ヒカリエの中をうろちょろと物色して時をつぶすことになった。これも初めての感覚でなかなか気持ちが良かった。奥様方はルイヴィトンの財布を手に、若者らはスマホを手に、僕は砥部焼の皿を手に。誰がどう見ても僕がいちばんクールであるに違いない。

ペティナイフ

僕はもともと手先の不器用な人間だが、長い間バーテンダーをやっていたから、ナイフでレモンやオレンジをカットするぐらいのことはできる。当時、バーテンの間では果物用のペティーナイフは輸入物のステンレス製ではなく、日本製の鋼のものが良いとされていて、僕も国産のまあまあ良い値段のするものを買って使っていた。鋼の包丁は、放っておくと錆びるし、手入れをしないとすぐに切れなくなる。そんなわけで、週に何度か砥石を使ってペティナイフを研ぐわけだ。砥石の使い方なんぞ誰に習ったわけでもない自己流だが、長年やっているうちにコツもわかってきて、そこそこ切れるナイフを研げるようにはなった。

写真のペティナイフの存在を知ったのはわりと最近になってからのことである。フランス製の、その辺の輸入雑貨屋などで簡単に購入できる代物。値段も1000円もしなかったんじゃないかと思う。これがめちゃくちゃ良く切れる。見ての通り刃がギザギザになっていて、あまり使えそうな感じはしないのだけど、トマトでも何でもスパスパ気持ち良いように切れる。その上にどれだけ使っても切れ味が全く衰えない。メンテも全く必要ない。

寿司屋や魚屋の職人さんとかが仕事で使うために高級な包丁が必要なのはわかる。素人がリンゴの皮を剥いたり、にんにくを刻んだりするために使うならコレで十分だと僕は思う。バーテンダーも(もちろん程度によるとは思うけど)街場のバーでジントニックのためのライムをカットするぐらいの作業のために、わざわざ手のかかる鋼の高級ナイフを持つ必要はないように思う。

そう、僕は怒っているのだ。どこの誰かが「バーテンダーたるもの国産の鋼の包丁を使うべし。」みたいなことを言ったせいで、たくさんの時間をしょうもない砥石と共に費やすことになった。生まれてから今まで砥石でナイフを研いで得したことは一度もないし、これから先もないだろう。だいたいにして砥石は重いし妙な存在感があって置き場所に困るのだ。

僕がナイフを研ぐために使った無駄な時間をかき集めたら1週間ぐらいタヒチでのんびりするぐらいになっただろう。つまり、僕がタヒチに行ったことがないのは、砥石のせいだとも言える。タヒチの美しい自然に囲まれて、熟した南国フルーツを食し、褐色の肌をした現地の美女らに囲まれてダンスを踊ったなら、きっと僕は世にも美しい絵を描いたことだろう。そう、僕がゴーギャンになれなかったのは、芸術的な才能に恵まれなかったからでも、努力をしてこなかったからでもない。ひとえにすべて砥石が悪いのである。オレは悪くない。文句は砥石に言ってくれ。

らせん

8時間
マックブックの前に座りっぱなしで作業して
ようやく曲ができあがる
素晴らしい
これまでの人生で
私が作ったどの曲よりも
素晴らしい

適当な映像をつけて
インスタグラムに掲載する

5分後
iPhoneをチェックする

反応はない

10分後
いつもの友人が
いいねをつけてくれている

20分後
いいねの数が20ぐらいに増える

30分後
何も変化はない
閲覧数を増やすことを意識して
ハッシュタグをつけた単語をいくつか記事に付け足す

1時間後
変化はない

自己嫌悪がやってくる

ダメだ
オレには才能がない

才能以前に
存在がない
クソだ
いやクソだって臭いがある
オレには
それもない
クソ以下だ
無だ

12時間後

オレはまた
マックブックの前に座って作業している
頭の中で
これまでの人生で
聴いたことのないような
素晴らしいメロディーが
渦巻いている



コーヒーブレイク

平日、午前中の青山。曇り空。熱を帯び湿った空気が重く街にのしかかっている。通りの店らはすでにドアを開けていたが、人の姿はまばら。ふと目についたカフェに入店した。朝の準備で忙しいのか、あるいはフランスの様式を真似たのか給仕の愛想はない。私はカフェで歓迎される要素を何ら持たない初老のダメ人間で(そして年甲斐もなく半ズボンを履いている。)自らそれを自覚しているので、私自身はそれで全くかまわないのだが、私の登場によって彼女たちの気分が少なからず害されたならば、それはこのあと、この店を訪れるお客の気分にも悪影響を与える要素になり得るわけで、それは私の本望ではない。

それも自意識過剰かも知れない。よく考えてみれば、ただ訪れただけでひとりの人間の気分を変えるほどの存在感が自分に備わっているとは思えない。彼女は単に機嫌が悪いか、そもそも機嫌が悪い人なのだろう。

誰もいない広々としたテラスのひとりがけソファに席を取り、コーヒーとケーキを注文。ほどなく給仕がそれらを運んできた。テーブルの位置が低く、彼女がケーキを置く時に前屈みになったせいで、大きく開いた胸元から胸の谷間がちらりと見えた。そういう時に動揺しないクールな人間でいたいと日頃から思っているが、おそらく私は取り乱したであろう。給仕は何も気がつかないふりをして店内に去っていった。

コーヒーは薄く、ぬるく、チョコレートのケーキは趣味が合わなかった。ソファの座り心地もイマイチだったし、テーブルは低すぎた。しかし私はこのひとときを楽しんでいた。ひとりでカフェに入ってコーヒーを飲むこと自体が数ヶ月ぶりのことだった。その行為(つまりカフェを訪れること)が、私の生活にとってどれだけ救いであるかをあらためて体現したのである。悪いことばかりではない。ケーキの上にちょこんとのせられた小さな赤いマカロンが美味だった。

ケーキの皿にチョコレートで文字が描かれていた。私の知らない言葉だった。フランス語かと思ってグーグルで調べてみたらマオリ語で「姿を消す」という意味だった。それがこの店で働く女たちの希望なのか、何らかの予言なのか、私にはわかりかねた。いずれにしても私はこの店に歓迎された客ではないようだった。

アイヌ人だったか、人の命名に動詞や形容詞を用いるという話を聞いたことがある。例えば「昇る黄色い太陽」とか「死せる美しい熊」とか、そんな感じだろうか。既存のルールを無視して勝手に自分に新しい名前をつけることができるなら「姿を消す」はミステリアスでなかなかクールな名称であるような気がする。

病人のひとりごと

自戒を込めて記録しておくけど、FacebookとかSNS「やめます」と宣言するタイプの人はほぼ間違いなく戻ってくるね。ほんとにやめる人は何も言わず静かに去っていく。死ぬ死ぬと言ってずっと生きてる人いるけど、それと同じだよね。SNS、何ひとつ楽しくなくてね。だいたい他人のこと興味ないし、誰ともつながりたくないし。自分のあげた記事は反応がなくて凹むだけだし。あまりにも反応がないからアカウントいくつも持って、記事作るの忙しくってしょうがない。一日中そればっかりやって、反応なくてまた凹んで。

SNSやめたら相当楽になるはずだってわかってるんだけどね。やめられない。ドラッグみたい、っていうかドラッグそのものだ。僕がはまったドラッグの中ではいちばんタチが悪い。タバコも酒もテレビもやめられたんだけどね。SNSはやめられない。せめて1日、1日だけでもやめてみようか。たぶん無理だろうな。これ書いている間にもう100回ぐらいインスタとかチェックしている。インスタの画面開く度に気分が悪くなる。やめりゃいいのに。今も気になってしょうがない。病気かな。病気だね。

Facebook広告やってみた

作った曲をiTunesなどで販売しているが、僕は事務所やレコード会社のバックアップがないフリーランスのアーティストなので、ただ売っているだけでは何も起こらず、自分で何らかの告知活動を行わなくてはならない。告知の手段としてはまずSNS、なご時世だが、フォロワの少ないアカウントから宣伝したところでたいした効果は期待できぬ。それでも何もやらないわけにはいかないので、タイムラインに散々流れてくるFacebook広告をやってみることにした

ひとまずは5日間10ドルのコースにエントリー。iTunesのサイトへ導くリンクが貼られた記事が対象。エリアは昨年のヨーロッパツアー で回った各国と、アメリカ、そしてブラジル、少数なれども僕のKOTAとしての音楽活動を知る人たちがいる可能性がある国を選択した。年齢層は10代から60代と幅広く設定した。

まだ5日の期日を消化していないが、3日目で広告の記事に付けられた「いいね」が400オーバー、今もどんどん増え続けている。普段ならひとつの記事に付く「いいね」は多くても5ぐらいだから、絶大な効果と言ってよいと思う。広告代金を「いいね」の数で割ると、1いいねあたり0.01ドル以下。あまりの高パフォーマンスにこれはヤラセなのではないかと疑い、反応があったいくつかのアカウントをチェックしてみたが、実在しない人間によって作られた偽アカウントの類ではなさそうに見える。Facebookもそこまで悪どくはないようだ。

ただし広告効果という点では疑問は残る。「いいね」を押したクライアントの中で実際にiTunesサイトへのリンクをクリックしたのはわずか6人。400人以上の人が「いいね」をしているのにも関わらず、彼らは肝心の記事の内容には無関心なのだ。こうなってくると「いいね」の価値というか意味が不明だ。何を思っての「いいね」なのか理解できない。

単純計算になるが、iTunesのサイトまでクライアントを誘導するために1人1ドルと算出できよう。それを高いと思うか否かは広告を出す者によってそれぞれだと思う。よくわかったのは「いいね」は金で買える。という事実だ。たくさんの「いいね」でページをにぎやかにしたいユーザーにとってはある程度有効な広告システムではあろう。ただ「いいね」を金で買ったかどうかは、そのアカウントを見ればすぐにわかる。むしろ印象が悪くなるという懸念も拭えない。

興味深いのは、「いいね」をくれたユーザーの居住地である。ほとんど全てがブラジル人と言ってよい。ヨーロッパ及びアメリカ各国のユーザーは僕の広告をほとんど「無視」した格好だ。彼ら欧米のFacebookユーザーが広告に引っかからないのは、おそらくそれだけ長い期間Facebookを使っているということなんじゃないかと僕は推測した。自分自身を振り返ってもそうだったが、Facebookを始めた当初は、広告とは意識せずに記事をアクセスしたり、情報を集めるためにせっせと他人のタイムラインをチェックしたりしていた。今は親しい友人の記事ですらほとんど見ることもない。ブラジルのFacebookユーザーにとっては、まだまだいろんなことが目新しいのではなかろうか。

以上、広告の目的はファンの獲得、それ以前に、まずは作った曲を10秒でも聴いてもらうことであり、大量の「いいね」をもらうことではなかったので、その意味ではこの投資(というか出費)は失敗に終わったと判断すべきだと思う。でもまあ、内容が把握できたのはよかったし、何よりもアカウントを開けるたびに大量の「いいね」が付いていく様子は見ていて爽快だった。もう一度やるかと聞かれればちょっと考えてしまうが、まあ今回の10ドルは惜しかった気はしていない。

余談だが、サウンドクラウド経由で「おまえをもっと有名にしてやるよ」と言ってきた輩がいて、方法を問うたところ「Facebook広告で告知する。」と堂々と返答してきた。プロフィール写真を見て僕のことをよほどバカな奴だと思ったのだろう。

Born to lose

LAURYN / A.D.S.R

ここ数年、ほとんどずっと毎日かけ続けているサングラス。もはや僕の顔の一部、というか顔そのものと言ってもよい。こうやって写真を撮っただけで自分の顔に見えてくるぐらい愛着がある。昨年壊してしまって、新しいのに買い換えたのに、今度は紛失してしまった。日本の新鋭メガネブランド A.D.S.RのLAURYNというモデル。知らなかったが同ブランドの定番商品であるらしい。ネットショッピングで見つけてすぐさま購入した。これが3本目になるわけだが、4本目、5本目の可能性は安易に想像できる。デザインは完璧すぎるぐらい完璧でかけ心地も非常に良好なのだが、あえて苦言を申せば、少々高級感に欠ける。フレームの素材だろうか、全体として少し安っぽい感じがするのは否めない。ストリートの若者向けのブランドと言ってしまえばそれまでなのだけど、おじさんとしては、このままのデザインでハイラグジュアリーブランドばりの質感を持ったものが見てみたい。値段も今の倍ぐらいしてもいいと思う。モノは安ければよいというわけではない。

外出するのにマスクが必要で、ただでさえ気分が落ちる中、お気に入りのサングラスをなくして意気消沈していたが、これで少し外に出る気がしてきた。と、思っていたら、梅雨入りが発表されたとのこと。実は頑張ってトムブラウン で買った傘もこの春に紛失したばかり。あまりに傘をなくすので高価なものを持てばなくさないかと思っていたが結果は同じだった。このまま紛失し続けながら残りの人生を生きるか、ギラギラ太陽の日にも素目で、雨が降っても傘をささず、何があっても外出をしない生活をするか。

モニターヘッドホン

モニターヘッドホン/Pioneer DJ HRM-5

外出自粛生活では悪いことばかりでもなく、ひとつには金をあまり使わないで済むというのがあります。カードの請求明細の金額が通常の半分、出費が多い月に比べると5分の1ぐらい。こうなってくると普段どこにどう金を使っているのか不思議な気分にすらなります。(おそらく半分は服とレコードなのでしょうが。)今の生活で特に物が無くて不自由ってことはないので、普段は知らぬうちに無駄なことにお金使ってるってことなんだろうな。

日々のハードユーズでヘッドホンの具合が悪くなってきたので、モニター用にヘッドホンを購入しました。DJ機材ではトップブランドのPioneerDJも専門分野外とあってか、あまりこれを奨める人がいないみたいなんだけど、僕はDJ機器はプレーヤーからスピーカーまでひと通りPioneerDJで揃えていて、ある程度信頼しているので、あまり迷わずコレに決めました。他と比べてないので何とも言えないのですけど、まあ値段なりの役割はしっかり果たしていると思います。一番気になる装着感は少々タイトだけど、許容範囲内。1時間とかなら着けっぱなしでも痛みや違和感なく作業できそう。音漏れにこだわるとある程度キツめに設計しなくてはいけないのは理解できます。その、音の遮断性は高いと思います。僕のスタジオ部屋の真上で娘がピアノ弾いてるの、全く気にせず作業できます。他のPioneerDJ製品同様、デザインは何も面白くないですが、そもそもヘッドホンで気に入ったデザインのものにあまり出会ったことがありません。(CHANELがヘッドホン発売した時はちょっと欲しいなと思ったけど、たしか150万円ぐらいしたっけ?)

ちなみに僕はDJでは同じPioneerDJの2000mk2-Sを使っています。もう生産終了品だけど買った当時は最高峰モデルとされていました。パーツは劣化したら交換できるので、よほどデザインのよいものと出会わない限りは、このまま使い続けると思います。散歩や電車に乗るときの普段使いはMarshall。これは前にもここで紹介しました。ロシアの軍用機で使用されていたヘッドホン付き飛行帽というのも持っているのですけど、音は鳴りません。

お知らせ

ビリー凱旋門との新しいユニットは、名称を「THE TOKYO COWBOYS/東京カウボーイズ」に変更し、海外進出に向けて本格的にプロモーション活動を開始することになりました。まずはアルバムの制作→リリース先のレーベル探しからスタートしワールドワイドに活動してまいります。

上記に伴い、現在Bandcampから配信しているトラックを一旦削除することになりました。レコードレーベルとの契約がしっかり決まったらまたご案内させていただきます。短い期間でしたが、ご試聴、ダウンロードいただき、たいへんありがとうございました。尚、いくつかの曲はSoundCloudなどで試聴できるよう現在調整中です。引き続き応援よろしくお願いいたします。 

アートワークは悩ましい

曲を作ってウェブに投稿。まあ砂漠に水を撒くような作業を毎日あきずに続けています。投稿するのは音楽ですが、必ずアートワークが付いてきます。僕のことを知らない人はまずジャケットを見てその曲を聴くかどうかを判断するので、プロモーションという意味では曲そのもの以上に重要なのがアートワーク。これも当然自分でやります。曲作りの方もまだかけだしですが、こちらはもっと素人。僕のまわりにはグラフィックデザイナーやイラストレーターなどグラフィック関係の友人が多いので(音楽関係者より多い)お願いすれば、かなりお安く相談にのってもらえるのですが、まあとにかく彼らは時間がかかります。グラフィックの世界では商品の売価の相場がだいたい決まっているので、稼ぎたければ数をこなすしかないというシステム。なので売れっ子は常に仕事に追われていてとにかく忙しい。友人からの依頼はそれらの仕事の隙間、もともと少ない睡眠時間を削ったりして対応するので、どうしても時間がかかります。僕は朝に思いついたフレーズをその夜には商品にしてオンラインに載せるというペースで曲を作っているので、それに対応できるデザイナーは世界中探してもいません。なのでしょうがないから自分でやることになります。素人がゼロから作るのはなかなか困難なので、雑誌やインターネットで拾った画像をコラージュするのですけど、やはりここでも著作権の問題が。

盗用は音楽もそうですけど、やはり素材、つまり元の作品のクオリティがそのまま反映されます。一流のフォトグラファーが撮影した写真は切ったり貼ったりしてもやはりいいんですよね。逆に著作権フリーで無料ダウンロードできるようなものは煮ても焼いてもどうにもならないことが多いです。

冒頭の写真は、今回の曲に合いそうと思って作ってみたイメージ。90年代のアレクサンダー・マックイーンを着用したモデルを撮影したファッションフォトですが、このままジャケットにして、万が一曲が売れたら後日盗用問題になりそうな気がするし、これ以上手を加えて元が何だかわからなくしたのでは意味がないということでボツにしました。こんな写真、誰でも撮れるじゃん、と思うかも知れないけど、撮れないんだよなあ。

画像をクリックするとbandcampのサイトに繋がります。今回はちょっとジャズ的な要素も入った洒落乙なブレイクビーツ。好きな人と一緒にカウチでまどろみながら聴くといいかも。あ、ジャケットも見比べてみてくださいね。こっちの方がぜんぜんいいから。

ラジオ・ステーション

Welcome to Tokyo Cowboy Resort / B.A.D RADIO STATION

また曲のお知らせかよ!でごめんなさい。毎日ほとんど曲作りしかやってないので、他に日記することがあまりないのです。

このB.A.D RADIO STATIONというプロジェクトは僕とビリーふたりのユニットなのですけど、知らない人のために紹介すると、ビリーは僕が93年に開業したプースカフェというバーを僕がやめたあと引き継いでずっと切り盛りしながら、凱旋門ズというバンドのギターをやっている者です。

ビリーとはお店以外でも一緒にバンドやったり、そういえばフットサル一緒にやったりもしてたよな。彼が10代だったころからのながーい付き合いです。

話は変わって、以前、ラジオの放送局を持ちたいなと思っていたことがありました。そこからご機嫌な音楽を流しながら、コーヒーとかビールを飲みに人が集まってこれるような空間があったらいいよなって。ビリーがバーテンをやって僕がDJをやればいいじゃんね。で、その放送局の名前を「B.A.D」にしようと 思っていたわけだ。B.A.Dの「B」はビリーの「B」ですね。

このウイルス騒動でプースカフェも休業を強いられる中、業務的なやりとりをしているうちに、するするとビリーと音楽コラボする話が持ち上がり、作風が僕がひとりでやってるのと全く違うので別プロジェクトにすることになり、新しく名前が必要だわ、となった時にそのラジオ・ステーションのことを思い出して、そのまま引用したというわけです。

あ、こんな話をすると僕がまた店を始めるというようなことを想像する人もいるかも知れないけど、それはないです。ラジオの話も思いついたのはずっと前のことで、僕はこの3年ぐらいで価値観とか生活スタイルに大きな変化があって、今は「ムラ」とか「サロン」のような「人がつるむ」環境(そういうものに迎合し属していた過去の自分も)を心底憎んでいますので、自らがそっせんして世の中に「つるむ空間」を提供することは今後一切ありません。

と、また話がそれてしまったけれど、そのようにしてスタートした新ユニットの役割を説明すると、まず僕がリズムトラックを作ってビリーに送ります。ビリーはそれにいくつかのギターフレーズをのせて送り返し、僕がそれに音を加えて、構成を決め、ラフにミックス。同時進行でイメージのアートワークを作って、即発表。ってな具合です。

ビリーのギターはよく知っているけれど、彼も最近は腕を上げて、ギターが笑ったり喋ったりします。ザ・スミスのジョニー・マーさんが、ラジオで流れている曲を聴いて母親が自分の演奏だと気が付くようになったら一人前。というようなことをインタビューか何かに答えて言っていたけど、ビリーもその粋に入ってきている気がするね。上手いだけのギタリストは何百万人もいるけど、自分の音を持ってる者は本当に少ないです。

このシリーズはトラックの中に人の声のサウンドエフェクトを入れるのがお決まりの「お題」になっていて、まあ自分で喋ってみたり、古い映画やテレビ番組からサンプリングしたりしています。今回はちょっとビッチな女の子の声が欲しくて、グーグルで検索かけてみたらポルノに行きついて、若いカップルが湖畔の別荘でいちゃついていたら、そこにパパが帰ってきちゃって、、というチープな寸劇仕立てになっていて、シチュエーションもそうですし、主演の女優さんの声や喋り方がイメージにぴったりでサンプリングしたんですけど、男優の方の演技がポンコツすぎて、音の処理にずいぶん苦労しました。

そんなわけでタイトルも「リゾート」になっております。シリーズのタイトルはなるべくナンセンスになるように心掛けているのですが、今回はちょっと筋が通ってしまいましたね。そうでもないか。曲のラスト、ポルノ男優のポンコツなセリフ回しをぜひお楽しみください。

画像をクリックするとBANDCAMPのサイトに繋がります。

お知らせ

RESPIRI ALL SPECCHIO Parte 2 / KOTA feat. TRINITY

毎回毎回お知らせばっかりで恐縮なんですけど、まあ、このブログだけでマックロマンス情報を仕入れている方もいらっしゃるのでいちおうお知らせしておきますね。Parte 2はイタリア語でパート2。パート1が発売されたばかりなんですけど、パート2が6月6日にApple Music/iTunesから配信販売スタート、本日から先行予約開始です。別に予約したところで何か特典があるわけでもないので、配信が始まったらぜひご試聴だけでも。(画像をクリックするとアップルのサイトに繋がります。)

パート2とはいえ、ぜんぜん違う曲と言ってもよいぐらいの変わりようです。もともと別バージョンの曲があったのを商品化するためにミックスしているうちにどんどん変化していって原曲が何だかわからないぐらい変わりました。特徴的なのはビートレス、ドラムやパーカッションの音が一切入っておりません。でもダンスミュージックのムードは残したので、ビートがないのに踊りたくなるという奇妙な仕上がりになりました。狙ってやったわけではないのですけど、この感じはもう少し突き詰めてみようかなと思っています。

ウイルス騒動で世界の時間が止まっている間に、いろいろ仕込んでおいて時計が動き出すのに備えようと思っていたのですが、まあ正直何もできませんでした。それなりに忙しくしていたはずなんだけど、まあ音楽で言えば10曲ぐらい作っただけ。2ヶ月もあって2日に1曲作るだけでも30曲ぐらいはできてるはずなのに、いったい何をやってたんだか。

むかし、ソ連でクーデター騒動みたいのがあって、よくわかんないんだけど、それまでたいして有名でもなかったエリツィンさんがひょろひょろって出てきたと思ったらいつのまにロシアの大統領の椅子にちゃっかり座っていて、別にエリツィンさんのことは好きでも何でもないんだけど、世の中が混乱する時はチャンスなんだってことだけは頭にしっかり刻み込まれています。先の震災があって、今回のウイルスがあって、これで何もできなかった僕にはきっともう何のチャンスも巡ってこないんだろうな。

スタート地点

Oltre il confine / KOTA,TRINITY,YUASA

子供の日にリリースされた湯浅佳代子さん、アレッサンドラ・トリニティーさんとの合作 Oltre il confine が一足遅れで TRAXSOURCEに登場。他にもApple MusicやAmazonなどでも試聴、ダウンロードができるようになりました。今の時代、「作って売る」までのプロセスが容易になって、まあぶっちゃけ、ここまでは「誰でもできる」レベルで自慢にはなりません。個人でパンを作ってる人が楽天とかヤフーに自分のオンライン・パン屋をオープンした。ぐらいの感覚ですかね。

それでも普段使っているApple Musicの曲リストの中に自分の名前があるというのは、やはり嬉しいものですし、特にTRAXSOURCEは前出のBEATPORTと並んで世界中のDJで使ったことがない人がいないぐらいのダンスミュージック配信サイトで、誰のトラックでも取り扱うわけではないので、まあいちおうダンスミュージックのトラックメイカーとしてはスタート地点には立てたという達成感はあります。何といってもトラックメイクを始めてからまだ数ヶ月ですからね。2ヶ月前までジョギングシューズすら持ってなかったような輩がフルマラソンのスタート地点に立っているようなもんです。

ここから先のプランは全くないのですけど、まあとにかく曲を増やさなきゃね。1日15時間ぐらいPCの前にいて作業してますけど、ぜんぜん時間が足りません。不謹慎だけど世界の時間が止まっている今は自分にとって創作のチャンスです。

画像をクリック→TRAXSOURのサイト

静かな暴動

きのう、重要な案件があり、車で都心を横切った。あまりの人出にちょっと目を疑ったのである。カップル、家族連れ、観光客と見受けられるような人々までが、何をするでもなく街をぶらぶら闊歩しているのだ。多くの店舗が休業していることを除けば、ふだんの都心とあまり変わらない光景。奥渋谷のストリートなんかはいつもより人が多く車で通るのに難儀したぐらいのお祭り騒ぎである。

自分としては相当久しぶりの外出だったわけだが、一瞬自分の頭がどうにかなってしまったのではないかと思うぐらいの浦島太郎体験だった。ふと、終戦を知らずに29年間フィリピンの奥地に隠れていた小野田さんのことを思い出した。とっくに戦争は終わっていたのだ。

結局そこまで大騒ぎするほどのことではなかったということだろうか?しかし、このケチな国が国民全員に10万配るなんて話はこれまでに聞いたことはない。今朝も町内放送でステイホームを呼びかけるアナウンスが流れていた。公共の駐車場は閉鎖されたまま、海はサーフィンはおろか立ち入りすら禁止されている。少なくとも国サイドは事態が収束したと考えているようには思えない。そんな中、玉川高島屋は営業を再開。朝から晩までサーフィンするのと、高島屋で1時間買い物するのと、どっちが感染のリスクが高いか。要するに騒動に対する認識が官と民で乖離しているのである。

これは暴動なのだ。

国民の命をかけた静かな暴動なのだ。国民は耐えられないのだ。この不安に、この貧困に、この退屈に、この孤独に。彼らは火炎瓶を投げたり、スーパーマーケットを破壊したり、車に火をつけて爆発させたりはしない。彼らは自分自身、愛する恋人や家族を身の危険にさらすことで、支配者へ無言のメッセージを送っているのだ。俺たちを解放しろ。自由を与えろ。

国はここで対応を間違うべきではないと思う。従順な国民が、風でも嵐でも地震でも汚職でも原発でも、何があっても絶対服従してきた従順な国民が、今、初めて怒っているのだ。命をかけて支配者に抵抗しようとしているのだ。10万円としょうもないマスク2枚でごまかしきれると思わない方がよい。

さあ立ち上がれ。「ステイホーム」は今や禁句だ。「自粛ポリス」は公開処刑しろ。外出しない人間は吊るせ。街に出よう。買い物をして酒を飲め。唾を吐け。死ぬまで歌って踊りまくれ。赤信号はみんなで渡れば怖くない。これは暴動だ。支配からの卒業だ。俺たちを解放しろ。自由を与えろ。

と、まあ半分冗談なんだけどさ、ここは民をナメててはいかんところだとは思います。僕個人的には世間のトレンドやバッシングには関係なく、できる限り家にいようと思っています。もちろん、こんな状況下で外で働いていただいている方々に深く感謝と尊敬の念を忘れずに。

睡眠

人間たちとの騒動はよそに植物らにとっては嬉しい夏の到来である。特に今年は多肉らが元気でどんどん増殖、中には見たことのない花をつけたものもいる。そんな中、細い葉を枯らせて元気のない奴がいる。完全にご臨終の様相だが実はコイツ、夏に休眠する。最初の夏に枯れ、そのまま捨てるのも忘れて放置していたところ、寒くなったらとつぜん新しく葉を生やし、ぐんぐんと背を伸ばしたからびっくりした。伸びすぎて自分で支えられず、支柱をつけて育てている。鉢を換える時に確認したら根っこは不細工にも短く、これでは長い体を支えれらないのも無理はないと思った。自然界でどうやって生きていけるのかわからない。まあ、とにかく変な奴である。ホームセンターの観葉植物コーナーで同じ種類を見たら、サボテンのように手足状の株がニョキニョキ生えていた。ウチのは株をつけずに棒状のままひたすら空にむかって伸び続ける。もしかしたらダメな奴なのかも知れないが、他人とちがうのはいいことだ。ゆっくりおやすみ。君が目を覚ます頃、世界はどうなっているだろう?

MOVIE VIEW

スティーブン・ソダーバーグ監督のコンテイジョンをHULUで観た。確か映画館で観た記憶があるが、内容はうろおぼえ。何もこのタイミングでこんなものを観なくてもよいものを、最近我が家に導入したばかりの動画配信サービスHULUのメニューをチェックしていて何となくクリックしてしまったら画面に釘付けになって離れられなくなってしまった。

早い話が現在の我々が置かれた状態そのまんまみたいな内容である。不謹慎であることは承知で敢えて正直に言うが、これまでにあまり体験したことのない新鮮な感覚で、もう一度観てみたいという気すらしている。VRのヘッドセットを装着しジェットコースターに乗るゲームをプレイしながら、本物のジェットコースターに乗る感覚、とでも言えばイメージは伝わるだろうか。

ウイルスがものすごいスピードで世界を恐怖に陥れてゆく様は、まるで予言のようでもあるが、映画と現実で決定的に異なる点がある。映画の登場人物が、主要な者から通りを歩いているだけの脇役まで、皆、非常にシリアスなのである。逆に言えば、我々の現実社会には多く存在する「能天気」な人がひとりもいない。「カンケーねえじゃん、飲もうぜ〜。」みたいな輩が全くおらず、登場人物全員が一様にウイルスと感染に恐れ慄いているのである。

もちろん被害の程度の差と言ってしまえばそれまでなのだけど、私は、仮に現在のこの騒動がもっと深刻なレベルまで達したとしても、あまり動じず「能天気」な人たちの数は一定数存在し続けると思う。現在「カンケーねえじゃん、飲もうぜ〜。」な人たちだって、決して自分らの身の安全の保障があって能天気でいられるわけではないのだ。何の根拠もないけれど「カンケーねえじゃん」なのである。

ソダーバーグさんもそこまでは想像することができなかった。現実は映画よりもずっと怖い。だってその映画には描かれていなかった「カンケーねえ」人たちが文字通り誰それ関係なくウイルスを撒き散らすことになるわけだから。

でも、同時にそこがリアルな人間の強みであるとも思う。映画で描かれていたレベルのパニックに現実の世界が陥っていない背景には、おそらく物事をあまりシリアスに取らない楽天的な人々が一定数存在することが大きく付与していると思う。私、個人的には、人々はできる限り外出を控えてステイホームすべきだと思うが、世の中の人間が全員私のような心配性かつ悲観的な放射脳タイプだったとしたら、世界はもっと深刻な状況に追い込まれていたに違いない。全体としてよくバランスが取れているのだなと、思いもよらぬ感想をもってして、今日も一歩も家から出ずにいるわけである。さて、次は何の映画を観ようか。

追記:これを書いた後に同じくHULUでオーシャンズ13を観たのですけど、ぜんぜん違う映画なのに何だか同じリズムが続いてる感じするなあって、考えてみたら監督同じでしたね。で、調べてみたら「セックスと嘘とビデオテープ」がソーダバーグさんのデビュー作なんですね。何だか得体の知れない新しいトレンドの始まりを象徴するような変な映画で、(新時代に自分が)ついていけるか自信ないなあと不安に思ったことをよく覚えています。

無力

あまり気分の良い話ではないが
ウイルス騒動について
また現在の心境を記しておく
騒動が深刻化してきた時から
何となく原発のことが
脳裏をチラホラしていたが
頭を整理すると
両者にいくつもの共通点
というか
ある側面から見れば
ほぼ同じ話であることに気がついた
一般的に
今回のこの騒動は
ウイルスと人類の戦いである
と認識されているようであるが
ウイルス側に戦う意思はない
そもそもウイルスは思考しない
脳もないし哲学も文化も何もない
もし全ての人類が
自宅から一歩も外に出なかったら
この騒動はひと月
遅くとも2ヶ月で収束する
ウイルスが増殖するためには
人の移動と接触が必要不可欠
人類の協力なしには
奴らは存在すらできない
つまり
この騒動を収束させるか長期化させるかは
完全に人間サイドの都合である
もしこれが戦いであるとするならば
人間vs社会のシステム
と考えるのが適切だと思う
要するに
我々は我々自身との戦いを強いられている

またその話か

ここから先は
同じやりとりの繰り返しで
話すのも憂鬱だ
やめよう

5/40

Tokyo Cowboy Disco Part 2. / B.A.D RADIO STATION

時期的なものもあるかも知れないが、こと作曲に関しては世の中からのフィードバックが薄い。SNSやブログでディスられて凹むことは何度も経験してきているが、今回の場合はほぼ無視というか、イジメの対象にすらならないようで、やる気を削がれる。まあ作曲とは関係なく、私の賞味期限(賞味期間があったとしての話だが)がとっくに切れているというだけの話かも知れない。

以前にも話したことがあるが、甲斐バンドの甲斐よしひろさんが何かのインタビューに答えているのを見たか読んだかしたことがある。デビュー前、田舎から上京してきて右も左もわからない中で彼はまずオリジナル曲を40曲作ろうと思ったのだそうだ。40曲あればアルバムを3枚作ることができるし、アルバムが3枚あればプロの音楽家としてやっていけるだろうと目論んだ。と話していて、まあ数字の上ではその通りなのだけど、そこには大事な部分が抜けていて、つまり曲を作ってからそれがレコード屋の棚に並べられるようになるまでの「プロセス」が全く考慮されていないのである。40曲=プロの音楽家。あまりにもシンプルすぎる思考回路だが、その後の彼の活躍は私たち世代の人間なら誰しもがよく知っている。

私自身は甲斐よしひろさんのファンだったことは一度もないのだけれど、彼のこのデビューの逸話は教訓として頭の中にしまってある。

先月ぐらいから作曲を始めてみて、また彼のその能天気な教訓を思い出した。実際に、自分で納得のいく曲を40曲作るというのはなかなか大変なことだと思う。おそらく、40作れる人は100でも1000でも作れるとかそういう話なのかなと感じている。そこまで行ってみないと見えない景色というのがあるようにも思う。なので、ひとまず今は作ることに集中して、黙って40曲作ってみようと思っている。飽きずにできるか自信はないが、とりあえず現時点での目標。

そんなこと言われると聴く気も薄れるかも知れないが、5/40をbandcampに掲載した。(画像クリックで視聴/ダウンロードできます。)あと、35か。

リリース

Oltre il confine / KOTA,TRINITY,YUASA on BEATPORT

女流トロンボーンプレーヤー、作曲家、最近はシンセサイザーも使って唯一無二のアバンギャルドな活動をされている湯浅佳代子さんとイタリアはローマをベースに活動されているマルチアーティスト=アレッサンドラ・トリニティさんとの合作トラックが本日世界最強ダンスミュージック配信サイトBEATPORTからリリースされました。3人は一度も会うことなくメールのやりとりだけで制作した本作。制作開始からリリース決定まで約1週間、そのひと月後にはリリースというちょっと前まででは考えられなかったスピードですべてが進みました。聴いていただければわかりますが、僕がこれまで携わってきたどの音楽とも異なるタイプの新しい音になったと思います。小さな一歩ですが、世界に向けて動き出した最初の一歩です。

視聴してもし気に入ったらぜひダウンロードよろしくお願いします。次の一歩につながりますんでね。(画像をクリックするとBEATPORTのサイトにアクセスできます。)

対応

外出自粛生活に完全に対応した
もともと
サーフィンとDJ以外で
ほとんど外出しない生活をしていたから
ライフスタイルそのものが
劇的に変化したわけではない
働きもしないで家にいることに
罪悪感を持っていたことが判明した
今は堂々と家にいられる
荒れ放題の自宅を片付けて
自分のスペースを確保し
朝から晩までヘッドホンをして
パソコンに向かって曲を作っている
誰に聴いてもらえるわけでもないが
今は創作そのものを楽しんでいる
庭と玄関に椅子を置き
即席のカフェコーナーを設けた
春の植物の成長や
狭い空を流れる雲を見ながら
コーヒーを1日10杯ぐらい飲む
腹は減らないし
料理も面倒なので
毎日パンばっかり食べている
6枚切りの食パンを2枚焼き
バターとジャムはちみつを塗って
これを1日3回くりかえす
あいかわらずテレビやラジオはシャットアウト
SNSも一方通行で
基本的に人の記事は見ていないが
世の中の状況はだいたい想像できる
外出と言えば近所のパン屋に行くぐらいだろうか
寂れた商店街だが
普段より人が多い気がする
人の数は同じで
営業している店の数が減ったわけだから
店舗あたりの客数が増えるのは当然だ
ずっと夢の中にいるような気分ではある
自分60%ぐらいで生きている感覚だ
残りの40%はどこに行っただろう




交換

家族5人全員がほぼ24時間自宅にいるという状態を初めて経験している。PC4台とスマートフォン5台、これに最近ではApple TVが加わってWi-Fiもパンク状態。ようやく最新の設備を整えた。とりはずした旧ルーターに疲労感が漂っている。こいつを通って行き来した情報、音楽、数字、写真、映像、愛の言葉、、よくがんばりました。ありがとう。

プロモーションビデオ

ロマルー再開?

長くマックロマンスを知っている人は
ロマンスルームのことをおぼえているかと思う
当時
私がきりもりしていた
プースカフェという店のホームページに
書き記していた営業日誌である
といっても
店のことはほとんど書いておらず
趣味から時事問題
悪態や愚痴にいたるまで
まだブログなども一般化する前の時代の話で
世の中の目もあまく
今なら炎上しそうな内容のことも
好き放題書き散らしていた
他にライバルもおらず
けっこうな数の読者がいたと思う
そこに目をつけた人がいて
人様のサイトに連載を持つまでになった
その後
フェイスブックやツイッターが一般化し
埋もれるがごとくフェードアウトした

ふと
ロマンスルームの記事を書くにあたって
句読点を使わず
改行で文章をくくる
というマイルールがあったことを思い出し
それにしたがってこの文章を書いているわけだ
その当時のリズムが戻ってくるから不思議なものだ
何となくその当時に戻ったような気分すら
おもしろいから
しばらくロマンスルーム式で
文章を書いてみようかな

ちなみにロマンスルームは略してロマルー
コアな読者
つまり
ロマンスルームマニアのことを
ルーマニア
と呼んでいた

そうそう
ロマルーは
書き直しをしない
もルールだった
うむ
システム的にできなかっただけかも知れぬ

話にオチはない
あることないことを一方的にだらだら喋り倒すのがスタイル
ああ
これも口癖だったわ

新曲リリース

Tokyo Cowboy Disco / B.A.D RADIO STAITION bandcampで絶賛発売中!

サーフィンやジムはおろか買い物などの用事も必要最小限にして要請にかなり忠実に外出自粛生活を送っている。毎日やることがたくさんあって、たいくつということはほとんどない。むしろちょっと前よりも忙しくしているような気がする。

特に外出自粛とは関係なく、ひと月ぐらい前からトラックメイク、つまり作曲活動を開始した。これまでもトラック作りはやっていたが、あれは主にDJライブのためのネタ作りで、「リミックス」という手法を選択していた。ざっくばらんに言えば「他人の曲」のアレンジである。買ってきたサンドイッチをバラして別のパンに挟み、新しくサンドイッチを作るような行為と思っていただければわかりやすいかと思う。何でわざわざそんなことを、と思う方もいらっしゃるかと思うが、ひとつのセオリーとして音楽、特にDJの世界では定着している。

リミックスはもともとが人の曲なので基本売ることができない。(作曲者からの依頼あるいは許可を得た場合はこの限りではない。)今や音楽は知的財産で著作権法のコントロール下にある。私は著作権法が大嫌いで存在そのものに反対の立場にいるが、その話はまた別の機会にする。とにかく著作権法のおかげで私(たち)は作ったものを売ることができない。

売れるものを作らないと商売にならないので、作曲を始めたわけである。昔は作曲と言えば一部の才能のある人間にしかできない特殊な技術だったが、今は機械や環境が進歩して、素人でもわりと簡単に曲を作ることができるようになった。また料理で例えるなら、ホットケーキミックスやカレーのルー、機械で言えば電子レンジやセンサー付きの調理器のように簡単な作業でプロが作るのに近いものを作れる環境が整ってきているわけだ。

また、作った曲を販売するまでのプロセスもかなり簡略化できるようになった。以前ならレコード会社を通さずに楽曲をリスナーに届けることはまず不可能で、そのために好きでもない男の射精を手伝うなど作曲以外の能力がモノを言うこともあったとかなかったとか噂はともかく、一曲がリリースされるまでの間にそこに関わる人間の数が無名の新人アーティストでも100人やそこいらは軽く超えるような状態で、とにかく時間がかかるし、その人間たち全員が何某かの金を受け取らなければならないわけで、金もかかる。

曲やレコードは売価がだいたい決まっていて、ホテルオークラだからレトルトカレーでも一皿3000円、みたいなのはない。つまり儲けたければ量産して数を売るしか他に方法がない。万人に好まれる音楽(だいたいどれも似ている)が世の中に氾濫するのはシステム上の問題と言えよう。事実、そこまで大金をかけなくても(つまり携わる人間の数が少なくても)楽曲をリスナーの元に届けられるようになってから、音楽のトレンドは細分化されてきているように思う。そんな中で星野源のように飛び抜けたヒットを飛ばし続けるアーティストもいて、それはそれで凄いことだとは思う。

話がそれた。さて、作曲から販売までどれぐらいの人数と時間がかかるか?もちろん曲の内容やクオリティーにもよるが、人数は間違いなく一人でできる。時間は、、物理的には10分。現実的に捉えるなら1日あればできる。

写真はビリー凱旋門とふたりで作った曲で、着想からリリースまでおよそ3日ですべて行った。何だ3日もかかっているじゃないかと言うなかれ、別に我々はリリースまでのスピードを競っていたわけではない。もしもっと早くやる必要があれば1日でじゅうぶんできたはずだ。関わった人間は僕とビリーちゃん(あと女性のコーラスをiPhoneで録音して送ってもらった。)のみ。スタジオには一度も入ってないし、電通のまぬけと打ち合わせもしていない。先にも言ったように僕が作曲を始めたのはひと月ほど前のことで、専門的な技術や経験はほとんどないに等しい。(過去にミュージシャンだった時の経験はある程度役に立ったかとは思うが。)セオリーは作曲しながら勉強するといった具合だから、たぶん正当な曲の作り方は今でも全く理解していないと思う。それでも曲はできたし、実際に買うことができる状態にある。

何が言いたいか?私はこの状態が正常であると思う。つまり音楽なんてものは、アーティストとリスナーがいれば他はいらないってことだ。高度なテクノロジーを駆使して芸術が「人」の元に戻ってきた。音楽はレコード会社のものではないし、広告代理店のものでもないし、ましてや背中にポロシャツを引っ掛けてペニスを勃起させた中年男性のものではない。音楽は表現者とリスナーのものでしかない。奏でる者、歌う者、聴く者、踊る者。良い時代になったのではない。本来の姿に戻ったのである。